血と涙で塗り込められた台湾史

台湾と大陸の間に横たわる台湾海峡の水深は約50−100mである。だが、台湾の東海岸からわずか10キロ余離れた太平洋の水深は急に深い海溝の2,000mに変わる。しかも、東へ行けば行くほど深くなり、4,000m以上に達するところもある。そのような地理的構造は、台湾が中国大陸棚の外縁部にあり、祖国大陸と地理的には互いに連なり合っていることを端的に示している。しかも、台湾島で発掘された先史時代の遺物、高雄の獅公山(林園郷の鳳鼻頭山)で発見された「鳳鼻頭文化」、台北の八里郷大ふん坑で発掘された「仰韶文化」、台南の左鎮郷菜寮渓流域で発見された「左鎮人」の頭蓋骨の化石、台東の第浜八仙洞で発見された「長浜人」の遺物などはすべて大陸の同じ時期の文化に類似し、先史時代の台湾人が大陸から渡来したことを示している。

中国の古代文献の中で、台湾は「蓬莱」、「貸輿」、「員きょう」、「瀛洲」、「島夷」、「琉求」などと称されていた。三国時代からだんだんと開拓が進められ、台湾を統治することになった。元の世祖皇帝は澎湖に「澎湖巡検司」という行政機構を初めて設置し、台湾澎湖の事務を管轄し、泉州の同安県に属していた。

1624年、オランダの植民者が台安平南の安平地区に上陸し、台湾に侵入し、38年にわたって植民支配を行い、「赤嵌楼」、「安平古堡」などの植民地の遺跡が残っている。ほぼ同じ頃に、スペイン人が台湾北部の鶏篭鎮(現在の基隆市)を占拠し、淡水鎮にとりでを築いた。すなわち今日の「淡水紅毛城」である。1642年、オランダ植民者が北上して、スペインを破り、台湾で覇を称えることになった。

1661年、偉大な民族英雄鄭成功が2万5000人の兵を率いて台南の鹿耳門内禾寮港に上陸し、オランダ植民者の軍隊を打ち負かし、1662年2月1日にオランダ人に降伏を余儀なくさせ、台湾を奪回した。

台湾を奪回した五ヶ月後に、鄭成功が死去し、その子の鄭経と鄭克爽が23年にわたって相次いで政権を維持した。1683年、福建水師提督の施琅が詔を受けて軍隊を率いて海を渡り、澎湖を攻め落とした。鄭克爽は投降し、台湾はあらためて中央政権の統一管轄下に置かれた。翌年、台湾に府が設けられ、福建台湾厦門道に属した。1885年、台湾は正式に府から省に昇格され、台湾省の初代巡撫に就任した。

1894年に、日清戦争が勃発した。清朝が敗れ、主権を失い国辱めの「馬関条約」の調印を強いられ、台湾と澎湖を日本に割譲することを余儀なくされた。このことを知った台湾人民は多いに驚き、悲憤慷慨して一丸となって自ら「抗日義勇軍」を結成し、命を賭して勇敢かつ粘り強く日本帝国主義と戦った。

51年の長さにわたる日本占領時代に、日本軍国主義は台湾人民に対して残酷な政治的抑圧と経済的略奪を行う一方、「皇民化」教育で台湾の漢民族文化を切り崩し、消滅させようとした。しかし、台湾人民の抵抗の闘いは止まることなく、中国文化は依然として台湾人民の心のなかにしっかりと根をおろしつづけた。

1945年8月15日に、日本は無条件降伏を受諾し、10月25日に、台湾は再び祖国に戻った。だが、遺憾なことに、1949年、新中国成立後、台湾はまた祖国大陸と分断される状態になってしまった。