チベットの祝日

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   チベット仏教は中国のチベットですでに1300年余りの歴史があり、チベット族の人たちの暮らしの一部分となり、チベットの祝日はその大きな影響を受けているため、濃厚な宗教的色彩をもち、あるものはすでに純然たる宗教の祝日に発展している。自然環境があまりにも悪く、さまざまの労務がきわめて重いにもかかわらず、寒冷地域の高原で生活しているチベット民族は、みずからの運命を変えることを切望して、天が彼らに恵みを与えることができ、神と仏が彼らを保護してくれることを待ち望んでいたのである。祝日はちょうど人々に天、神仏、大自然に向って一種の表現の機会と場所を与えることである。祝日を祝う雰囲気の中で、人々は神さまを楽しませると同時に自分も楽しむことができるのである。

 チベット族は祝日の多い民族であり、チベット暦(漢族の旧暦と似ている)で計算すれば、ほとんど毎月祝日がある。

 チベット暦の正月は、祝日が最も多く、最もにぎやかな月であり、この月は、ほとんど毎日が祝日である。新年は人々が最も重視している祝日であり、チベット暦の12月初めから人々は新年を祝うことになり、まずチンコーの苗を仏前に供え、月の半ばになると、あちこちの家ではスー油と小麦粉をこねたお菓子を揚げ始める。年末に近づくと、どの家庭にも備えられている穀物入れの容器にスー油でこねたツァンパをいっぱい入れ、チンコーの粒、カワラサイコなどを炒め、チンコーの穂を入れ、色付けされたスー油で作った羊の頭をも用意する。これらのすべては来年よい天候に恵まれること、人間と家畜が元気であること、豊作を祈るためである。12月29日には、人々は台所を掃除し、真中の壁に乾いた小麦粉を使って「八吉祥徽」の絵を描きあげる。夕方になると、一家の人たちは丸く囲むようにして「古吐」(煮た麺類の一種)を食べ、古吐を食べ終わってから盛大な厄払い式を行い、幽霊を避けて邪気を追い払う。除夜の夜までに、正式に新年を祝うことになる。どの家の表門の外にも石灰の粉末で吉祥を象徴する八瑞の相の符号を画いて、よく掃除した室内には新しい「チベット絨毯」を敷いて、母屋の仏壇の前にいろいろな油揚げのお菓子や、果物およびスー油、磚茶(てんちゃ)、干し果物などが供えられている。正月の1日は一般は一家団欒の日であり、人々は早起きして、新しい衣服を着て、まず神霊を拝み、それから穀物入れの容器とチンコー酒を手に持ってお互いに新年の挨拶をし、いくつかのめでたい祝辞を述べ、続いて前日からお燗されてきた熱いチンコー酒を飲み、さまざまなチベット特有の美味しい食べ物を食べる。正月の2日、親戚、友人たちがお互いに新年の挨拶をする。正月の4日から、ラサで大規模な伝召大会が開かれる。これはチベット仏教ゲルクパの創始者のツォンカパが1409年にまずラサでお釈迦さまが妖怪を折伏させたことを偲ぶために創設した祈願法会である。最初に三大寺の僧たちがチョカン寺のお釈迦さまの前で読経して祈り、経文について語り、新しい拉譲巴格西(ラランバコシ)学位(チベット仏教の最高学位)に合格したことが認められる。法会の期間、政府が僧徒に布施を配る以外、各地の信者もお寺で仏にお供えものをし、布施を配る。法会は正月25日の弥勒菩薩をお迎えした後で終わるのである。正月にはいま一つの重要な祝日があり、正月15日のスー油灯祭である。昼間、人々はあちこちの寺に参拝し、夜になると、街のいたるところにいろとりどりの花の棚を立て、高いものは3階建てのビルぐらい、低いものは2階建のビルぐらいに達す。上にスー油でつくった色とりどりの仙人、人物、鳥、動物と草花を並べ、高くて雄大であり、そして緻密精巧であり、その上100を超える明かりの輝きが加わり、大通り全体がまばゆいほど美しくなり、輝きにみちる。ダライラマと主な官吏たちが慣例に従って花・灯を観賞し、僧侶、大衆と一緒に祭日を祝い、祝日をクライマックスへと高めていく。正月24日から26日まで、弓術試合と厄払いの式を行う。この時のラサは、人出が多く、とてもにぎやかである。

 2月から12月までの祝日は枚挙にいとまがないほどあり、ここではいくつかの代表的な祝日を紹介しよう。

 チベット暦5月15日はリンカ祭である。チベット語では「蔵木林吉桑(ツェンムリンギェサン)」と呼ばれ、その意味は世界の焼香の日である。聞くところによると、これは蓮花生大師という高僧がかつてサル年の5月にチベットのすべての妖怪を屈服させたことを記念する祭りである。大自然を愛しまた歌も踊りも上手なチベット族の人たちはこの日は晴れ着姿で、チンコー酒、スー油茶やいろいろな美味しい食品を持って広い木蔭のあるリンカに来て、テントを張り、食べるや、飲むや、歌いながら踊り、大自然の美しさを存分に楽しむ。各テントの間ではまたお互いに招待しあって、民間の芸人もここで芸を披露し、この祝日はいつも1カ月続く。

 チベット暦の7月1日は雪頓祭であり、その意味は「ヨーグルトを飲む祝日」ということである。雪頓祭がチベット芝居の合同公演を主とするので、「チベット劇祭」とも称されている。17世紀以前においては、「雪頓」は全く宗教活動に属するものであった。その時の法規・戒律によって、僧侶は夏は長期間みそぎをし頭取を行い、静かに暮らすことを求められ、その間外出は二法度で、数十日間たって禁が解かれてから山を下りることができ、庶民たちはこの時ヨーグルトを用意して布施をし、これが「雪頓」の由来である。17世紀中葉、チベット芝居公演の内容を加えて、「雪頓祭」も定着するようになったが、宗教と娯楽活動は依然として寺院の外でおこなうように制限されていた。18世紀の初めに、ロブリンカが完工するとともにダライ・ラマの夏の宮殿となり、雪頓祭の行事もロブリンカに移され、庶民も庭園に入って芝居を見ることを許され、それによって一連の固定的な祝日の儀式が形成された。

 「望果祭」はチベット暦の8月におこなわれ、豊作を祝うものであり、決まった日付はなく、一般には農作物が熟した時に行なわれ、「望果」はチベット語であり、その意味は田畑を視察することである。すでに1000年以上の歴史があり、最初はヤルツォンポ河の中下流の渓谷地帯でおこなわれていた。最初の「望果」行事は神霊を祭って豊作を祈る儀式であった。一般には村落を単位とし、自分たちの宗教の祈祷師が術を施し、村民は自村をめぐって回る。宗教の発展と浸透に従って、「望果」行事は絶えず更新されてきた。8世紀の後期、チベット仏教の寧瑪派(ネイマパ)が栄え、「望果」の行事は次第にネイマパの影響を受け、呪文を唱えて豊作を祈らなければならなくなった。14世紀には、格魯派(ゲルクパ)が発展をとげてだんだんと支配的地位を占めるようになり、「望果」の行事は黄教の色彩を帯びることになり、行進の列の前では仏像を高く掲げて経文を暗誦することになった。それ以後、「望果」の行事は祝日に固定され、次第に競馬、弓術、歌と踊り、チベット芝居、石を抱えあげる競技、相撲などの種目が増え、農業区のほか、一部の放牧地区でもこれに似た行事が行われるようになっている。

 チベット暦の10月に二つのより大きな宗教の祝日があり、一つは10月15日の吉祥天母祭であり、チベット語では「白拉日卓(ビェラシゾ)」と呼ばれる。木如(ムル)寺の全僧徒がラサのチョカン寺の護法王尊吉祥天女のために盛大なイベントを行う。僧徒は14日の夜に天母像をお釈迦さまを祭った仏殿にお迎えし、お釋迦さまと対面する形で座らせる。15日の早朝、朝日が東の空に昇った時に、僧徒は頭のてっぺんで天母像を支えて八廓街に来て、数多くの善男善女が天母像にハタという絹織物をささげ、一連の神を地下にお迎えする儀式を行った後、チョカン寺に戻って、天母像をもとの玉座の上に安置する。婦人たちはこの祝日に特に興味を持ち、それを「仙女節」と呼び、彼女たちはこの日に工夫を凝らして着飾り、天母像の前で香を焚いて願をかける。10月のもう1つの祝日は25日の燃灯節である。チベット仏教のゲルクパ開祖のツォンカパはこの日に亡くなった。この日の夜、寺院や一般家庭の屋根には皆無数の明かりが点され、転経の隊列がひきもきらずに続き、信者たちは桑の木の枝を手に持って次から次へとチョカン寺の前の香炉に投入し、神仏が自分たちに好運を持って来て下さることを祈る。

写真の索引

1. レプン寺の大仏展示祭
2. トラクターに乗って祝日の行事に参加しに行くチベット族の牧畜民たち
3. レプン寺の大仏展示祭
4. 伝召大法会
5. ナッチュ草原の競馬祭の腕比べのエキジビション
6. ナッチュ草原の競馬祭での歌と踊り
7. 熱振(ラチュン)寺の山回り祭で呪文を唱えて踊る人たち
8. ラサの祝日の夜
9. 雪頓祭におけるチベット芝居の公演
10.望果祭を祝う騎手たち
11. 望果祭の競馬
12. ナッチュ草原の競馬祭の綱引き競技
13. ナッチュ草原の競馬祭における勇ましい騎手
14.ガンデン寺の大仏展示祭
15.チベット暦の新年に老人ホームにいる年寄り親たちに新年のあいさつをする住民委員会の幹部
16. 沐浴祭
17.豊作を祝う望果祭の歌と踊り
18.チャムドの強巴林(チャムパリン)寺の法会――厄払い