中国のチベット学

 チベットは中国の南西部国境地帯に位置する。大昔から、チベットの人々は「世界の屋根」と呼ばれている青海・チベット高原一帯で働き、暮らし、子孫を残してきた。長い歴史の過程において、チベットの人々はその勤勉さと英知で、多彩な物質文明と精神文明を築き上げてきた。56の民族からなる統一した中華民族の重要な構成部分の一つとして、チベット民族はずっと国内のその他の少数民族と政治、経済、文化などの面で密接な関係を保ち、お互いに学び合い、助け合い、ともに中華民族の文明史を書き上げた。長期にわたってチベット族は漢民族およびその他の少数民族と多くの面で同じかあるいは類似した特徴を保ってきた。それと同時に、自然環境、地理的環境、宗教、信仰、歴史の変遷など数多くの要素の影響を受けたため、チベット族の文化はまた鮮明な地域的色彩と濃厚な民族的特色を持ち、中華民族の文化の宝庫を豊かにしている。

  時代の推移につれて、チベット族の形成、発展とその政治、経済、文化、社会などの分野の問題を研究する総合的科学――中国のチベット学が次第に発展をとげ、充実し、中華民族の学術の一分野となるとともに、世界の学術界の注目を集めている。 

  中国のチベット学には長い歴史がある。古代のチベット族の学者がチベットの歴史、文化をまとめて書き上げたチベット語の古文書は非常に多い。その数量は、中国各民族の古い文献の中で、漢字で書かれた文献に次いで2位を占めている。約2000年前の秦・漢の時代の漢字で書かれた文献の中にも、青海・チベット高原における人類の活動に関する記録がある。その後、特に隋・唐の時代に入ってから、チベット族とその歴史、文化を漢語で記録した文献、史書、地方誌、保存公文書と個人のいろいろな著述がだんだんと増え、内容も非常に豊富になった。そのほか、蒙古語、満州語などで記録されたチベットの歴史に関する資料も非常に多い。これらの史料は、チベット族の歴史・文化の推移と発展の過程および国内の各兄弟民族との密接な関係を記録しており、伝統的チベット学の大きな宝庫を形成し、チベット学を研究するための貴重な資料となっている。

 1840年の中国とイギリスの間のアヘン戦争以後、外国の勢力がさまざまな方面からどんどん中国に深く侵入し、チベットはその他の省・自治区と同じように逐次半植民地となった。19世紀末から20世紀初めにかけて、イギリス帝国主義は清朝末期の政府の腐敗、無能を利用して、二回にわたって横暴にも出兵してチベットに侵入した。その後、さらに当時の中国の中央政府が1911年に勃発したブルジョア民主革命の弾圧を急いでいることに乗じて、「チベット独立」を画策し、中国からチベットを分割しようとした。この期間には、帝制ロシアもチベットを分裂する一連の陰謀活動を行った。帝国主義の侵略はチベットの人々を含む全国人民の激しい憤慨と抵抗を引き起こした。愛国主義的伝統に富む中国各民族の知識人は国の恩に報いるために、さらに視線を帝国主義の侵略のため激変しているチベットに向け、真剣にチベット問題を研究し、チベットを治め、国境地帯を安定させる対策を模索した。そして、あらゆる困難と危険をものともせずチベットに赴いて実地調査を行った者も、文献や資料の収集、整理に専念して、チベット学に関する多くの論著を書き上げた者もいる。おおまかな統計によると、1911年から1949年の中華人民共和国樹立以前まで、チベットに関する国内の著作は400ないし500種に上り、チベットの歴史、文化、宗教、政治、経済、教育、地理学、民俗などの諸分野に及んでいる。これらの著作のほとんどはさまざまな資料で、チベットについて深く掘り下げた論述を行い、その中で、近代チベット学の古典的存在となったものも一部ある。しかし、半植民地、半封建の旧中国では、チベット学研究事業の発展はさまざまな不利な条件の厳しい制約を受けた。

 中華人民共和国成立以後、中央人民政府がチベットの経済の成長、社会の進歩と民族文化の保護を非常に重視したため、中国のチベット学研究事業は新たな発展段階に入った。 

 1951年、チベットが平和解放された後、まもなく中央文化教育委員会、中国科学院は社会科学研究者からなる科学作業グループをチベットに派遣し、チベット地区の政治、経済、歴史、文化などに対して広範囲の実地調査を行って、多くの貴重なナマの資料を手に入れ、中央人民政府のチベット工作に関する方針と政策を制定する面で科学的な根拠を提供した。 

  1958年に、中国共産党チベット工作委員会は約70人からなるチベット社会歴史調査グループを組織して中国科学院民族研究所の少数民族社会歴史調査グループの専門家、学者と緊密に協力し、チベットについてさらに広範囲の調査・研究を行った。調査グループはチャムド、ラサ、ロカ、ナッチュを含むチベットの大部分の地区を踏査し、歴史学、社会学、民族学、考古学、言語学、古人類学などの学科に関する重要な資料を手に入れると同時に、国内のチベット学界の専門家、学者はさらに過去から残されているチベット学の文献や資料の収集、整理、検討の作業を行った。これらの調査・検討を通じて、チベットの社会の性格が確定され、それ以後行われた民主改革のために科学的な理論的根拠を提供しただけでなく、新中国のチベット学研究のため、きわめて貴重な資料を蓄積し、初歩的な研究の基礎を固めた。 

  1959年に、チベットの人々は中央人民政府の指導の下で、もとのチベット地方政府上層部の反動グループが引き起こした武力反乱を平定し、旧チベットの上層部の僧侶、貴族の連合独裁の「政教一体化」封建農奴制度を廃止し、チベットの民主改革の障害を一掃した。それ以後、チベットの百万にのぼる農奴と奴隷は解放され、新チベットの主人公になった。チベット社会のこうした歴史的な飛躍は、チベット学の研究のために展望を切り開くとともに、チベット学研究者にも新しい歴史的任務を提出した。つまりチベット族の優れた伝統文化を受け継いでそれを発揚し、チベットの経済成長と社会の進歩を促し、団結し、裕福になることを目指す、文明的な社会主義の新しいチベットを建設するために奮闘することである。
 
  反乱を平定し、改革を行った後、チベットの社会、経済は急速な発展をとげ、文化事業も高揚を迎えた。この時いらい、チベット学研究者は関連部門の助力の下で、民族の文化遺産の収集、整理、研究・検討に力を入れた。1959年に発足したチベット文化財管理委員会は効果的な措置をとって、さまざまな文献、古籍を適切に保護し、いくつかの古跡を修繕し、数万にのぼる貴重な文化財と大量の文献、保存公文書類を収集し、整理した。1960年、チベット自治区の各委員会、民族委員会は正式にチベットで最初の21カ所の保護指定文化財を公表し、そのうちの9カ所は国務院がその後に公表した国家クラス重点保護文化財に属している。それと同時に、チベット族の民間の文学・芸術の遺産を発掘、保護する仕事も展開され、大量のチベット族の民間の音楽と舞踊の資料を収集し、整理した。チベットの地方劇の伝統的演目を整理、改作した。民間に広く伝わっているいくつかの歌謡、民謡、寓話、神話、伝説と民話をそれぞれ一冊の本にまとめるとともに、これらの民間の文学・芸術の遺産に対して基礎的研究を行った。チベット自治区準備委員会はまた前後して五つの仏教学研究グループを組織し、数えきれないほど多いチベット仏教の経典の整理に着手した。 

  1951年から1966年にかけて、中国のチベット族のチベット学研究者は大がかりな社会調査と民族文化の遺産の発掘、整理を行い、多くの科学研究資料を蓄積したほか、チベット学研究の専門の人材を育成し、多くの研究成果をおさめ、研究活動の全面的展開のための基礎を固めた。

  残念なのは、新中国のチベット学研究の事業がスタートして間もなく、10年間も続いた「文化大革命」が発生したことである。この動乱は、全国各民族人民に大きな災禍をもたらし、チベット学研究の事業も例外ではなかった。しかし、関係部門の多くの幹部と大衆は依然として仕事を堅持し、多くの文化財と古籍を保護した。多くのチベット学研究者は困難な条件の下でも自分の仕事を中断しなかった。周恩来国務院総理みずからの関与の下で、ポタラ宮、チョカン寺など世界的に有名な歴史文化の宝庫は保全され、破壊を免れた。

 1978年、中国共産党は偉大な歴史的意義を持つ第11期中央委員会第3回全体会議を開いて、徹底的に「文化大革命」を否定し、民族、宗教、知識人などに関する政策を実行することになった。林彪、「四人組」反革命グループの迫害を受けた各民族の多くの専門家、学者の束縛を解いて自由の身にし、再び自分の持ち場に戻らせ、中国のチベット学研究の事業は新しい春を迎えた。この10年来、中国のチベット学研究の事業は急速な発展をとげ、その成果はこれまでのいかなる歴史的時期を上回るようになった。

チベット学の研究機構 

  新中国成立以後、中国政府はチベット自治区とその他のチベット族の集中している地区の経済成長、社会の進歩を促し、民族の優れた文化遺産の保護を強化するため、チベット学研究の事業を非常に重視することになった。50、60年代において、北京、チベット、四川、青海、甘粛などの省、直轄市、自治区の科学研究部門、大学、政府部門には専門のチベット学研究機構が設置された。1978年に入ってから、国はさらにより多くの人たちを集めて、既存のチベット学研究陣を充実させるとともに、新たな研究機構を設立した。現在、こうした研究機構は50余カ所に達する。 

  チベット自治区社会科学院はチベット最大の総合的研究機構である。同科学院は1978年から設立の準備に取りかかり、1985年8月5日に正式に設立された。現在、同科学院には民族研究所、宗教研究所、言語文字研究所、資料情報研究所およびチベット文字古籍出版社、『チベット研究』雑誌社などの機構がある。現在、この科学院は科学研究要員を百人以上擁し、前後して約100の研究課題を担当し、その中の多くは国あるいは自治区の重点プロジェクトである。陝西省咸陽市にあるチベット民族学院は、チベット公学を基礎として1965年に開設されたものである。これはチベット自治区の最初の文科を主とする大学で、教職員約600人を擁している。数十年来、チベット民族学院はチベット自治区のために何万人ものいろいろな専門人材を育成したほか、チベット学研究を主とする科学研究を行い、多くの研究成果をあげた。ラサにあるチベット大学は1985年に正式に開設され、自治区内で規模が最大の総合大学で、教師300余人を擁している。この大学はチベット自治区の経済の成長と文化事業のためにいろいろな専門人材を育成したほか、一部の専門分野でチベット学研究をも行っている。

 上記の総合的研究機構を除き、チベット自治区にはさらに多くのチベット学特別科目専門研究機構が設置されている。例えば、自治区科学技術委員会民族教育研究所、自治区文化庁チベット芸術研究所、自治区チベット病院・チベット族医師・天文暦法研究所、自治区人民医院チベット医学科学研究所、自治区『ケサル王伝』復活作業弁公室、サラ市誌弁公室、自治区・ラサ市両クラスの政治協商会議文化歴史資料委員会、自治区公文書保存館と考古学調査チームなどがそれである。そのほか、自治区人民政府のいくつかの機能部門およびチベット農牧学院などにも、専門研究機構が設置されている。 

  チベットの建設の必要に適応するため、自治区はまたチベット経済社会発展研究センターを設立した。同センターには農業・牧畜業経済研究室、財政金融研究室、経済情報研究室、経済成長戦略研究室、社会発展諮問研究室などの機構を設置している。同センターの研究者はチベットの実情から出発して、チベットの社会主義現代化建設を加速するため献策している。 

  首都北京は全国の政治・文化の中心で、人材が集中し、資料が多く、情報の伝播が速いことでよく知られており、チベット学を発展させるための有利な条件が揃っている。新中国成立の初期に、北京市には専門のチベット学研究機構が設置された。40年余りの発展と整備を経て、現在、北京には中国社会科学院民族研究所のチベット語研究グループ、チベット族歴史研究グループとチベット族農奴制研究グループ、中国社会科学院少数民族文学研究所チベット族文学研究室と全国『ケサル史詩』研究指導者グループ、中央民族大学チベット学研究所と民族言語学科(蒙古語、チベット語、朝鮮語)、北京図書館兄弟民族部チベット語グループ、北京民族図書館チベット語部などがある。これらの機構には数多くの著名なチベット学専門家が集まっており、影響の大きな科学研究成果が多数発表されている。 

  特筆すべきなのは、国の全力をあげての助成と協力の下で、中国チベット学研究センターが1986年北京に設置されたことである。同センターでは歴史宗教研究所、経済文化研究所、文献(図書館を含む)研究所と中国チベット学出版社(『中国チベット学』雑誌社を含む)などの機構が設置され、130余人のスタッフがいる。同センターが発足してから、いくつかの重要な研究課題を担当し、いくつかの研究成果をあげたばかりでなく、全国のチベット学研究と対外学術交流を組織、協調する任務を担っている。中国チベット学研究センターの設立は、中国のチベット学研究事業が新たな発展段階に入ったことを示す重要なメルクマールである。1986年に入ってから、国は前後して中国チベット学研究センターの建設のために数千万元を投じた。1995年末に、施設がそろい、機能の先進的な、濃厚な民族的風格を持つ中国チベット学研究センターの科学研究ビルが北京市の北の郊外にあるアジア競技大会選手村の東側に立っている。

 新中国が成立した後、とくにここ10年来、かなりのチベット族人口を擁している四川、青海、甘粛、雲南などの省でも一部のチベット学研究機構が設立された。そのうち、かなりよく知られているのは四川チベット学研究所、四川チベット学書院、四川外国語学院国外チベット学研究センター、四川省社会科学院歴史研究所チベット学研究室、西南民族学院歴史研究所チベット学研究室、民族研究室と民族言語研究所チベット語研究室、四川大学歴史研究所、青海省社会科学院チベット学研究所と民族研究所、西北民族学院西北民族研究所、青海省文化連合会『ケサル史詩』研究所、甘粛省チベット学研究所、雲南省社会科学院迪慶チベット学研究所などである。これらの機構の研究者はそれぞれの省・自治区の実情から出発して自らの強みを発揮し、多くの特色を持つ研究成果をあげ、所在する省・自治区のチベット学研究事業の発展を促す面で重要な役割を果たしている。

 上記のチベット学研究機構のほか、中国の多くの科学研究機構、大学と政府機関には数多くの研究室、課題研究グループがあるとともにチベット学の個人研究者もいる。それと鮮明なコントラストをなすのは、1949年以前の旧中国では、チベット自治区にせよ、大陸部にせよ、いずれも専門のチベット学研究機構がなかったことである。 

チベット学研究陣
 
 旧中国では、チベット学研究に従事している学者の数はかなり少なかった。当時は条件が非常に苦しかったからだ。新中国成立の初め、国はチベット学を振興するために、各地に分散していた各民族の専門家をチベット学研究機構に招聘し、彼らのために仕事と生活のよい環境を提供した。

 中国政府は1951年6月北京で中央民族学院を設立した。学院に設置された最初の学科はほかでもなくチベット語学科である。その時、中央民族学院は全国の各大学から一部の学業の面で優れ、品行の面でも立派な若者を募集して研修させ、新中国のチベット学研究陣の育成はこうしてスタートしたのである。これらの学生はベテランの専門家、学者の指導の下で、その大部分がチベット学の研究、教育、編集・翻訳、出版の面での高級専門人材となっている。

 60年代の初め、周恩来総理の配慮の下で、中央民族学院は古代チベット文字研究グループを設置し、チベット族の高名の先生を招聘して授業し、チベット学の言語、宗教、哲学、医学、天文学などさまざまな学科の教育と研究を行っている。この研究グループから巣立った人たちの多くはハイレベルの学者となっている。それと同時に、西北民族学院、西南民族学院、青海民族学院、チベット民族学院などの大学はチベット学の人材育成の面でも大きな貢献をした。 

 1978年以後、全国で百人近くのチベット学の大学院生が大学院の課程を修了し、その中の半数以上はチベット族の人たちである。そのほか、多くの学部生、専門学科の学生が卒業した。彼らの中の多くは次々とチベット学研究分野に戻っている。これらの青壮年の学者は古い学説の束縛を受けず、ハイレベルの学術論文を発表し、学界で頭角をあらわした。中国のチベット学の研究は前人の事業を受け継ぎ、将来の発展に道を開く新しい局面を迎えるようになった。

考古学

 旧チベットでは、文化財に対する考古学的研究は基本的に未開発の分野であり、ただいくつかの異なった目的を持つ外国の宣教師、ビジネスマン、探検家と学者が少数の地上の文化財に対して調査を行ったが、ばらばらな状態にとどまっていたにすぎず、規模を形成するに至っていなかった。

 新中国の成立以後、国内の学者はチベットの文化財について計画的な調査を始めた。
 
  1959年にチベットは文化財管理機構を設置した。1965年にはチベット自治区文化財管理委員会が発足した。 
60年代の初期、チベットの文化財保護担当者はそれぞれ各地に赴き、紛失した文化財を数万点収集し、その中には、世界でもまれに見る貝葉経、チベット絵画芸術の貴重な宝物としてのタンカやいろいろな民族宗教器具などがある。貝葉経に対する調査作業はとりわけ人々の注目を集めている。

  貝葉経は多羅樹の葉にサンスクリットで書かれた経文で、インドに源を発し、保存が難しいため、現存の貝葉経はきわめて少ない。チベットの特殊な自然環境のおかげで、今でも多くの貝葉経が保存されており、非常に貴重な文化財である。貝葉経の収集、整理、研究の作業は、仏教と古代の南アジア地域を研究する上で重要な意義を持っている。調査の過程で発見された文化財にはまた元・明朝いらいの歴代中央政府がチベットの地方の官吏を勅封した際の称号、詔、印鑑、金冊、横額および清の康煕、乾隆帝がラサなどに建立した石碑、乾隆帝が下賜したダライラマの転生霊童の確認手段としての金瓶抽籤のくじや金瓶、歴代のチベット地方政権と地方の首領が中央に呈した上奏文、文書、書簡などがある。これらの文化財は反論の余地がない形で、チベットが中国の固有の領土であり、中国の中央政府が昔からずっとチベット地方で主権を行使していたことを物語っている。

 60年代の初めから、文化財管理部門はさらにチベット自治区全域の遺跡、古代建築、古墳、古代石碑、断崖の彫刻などの調査を始め、全自治区の保護すべき重点文化財を基本的に確定した。現在、チベット自治区の国家重点保護文化財にはチョカン寺、ポタラ宮、ガンデン寺、サキャ寺、タシルンポ寺、チャンチュ寺、チベット王墓、古代ゲル王国遺跡、レプン寺、セラ寺、カブリンカ、チャポリ寺、ギャンズェ・ゾンサンがイギリスの侵略軍と闘った時の遺跡など13カ所があり、そのほか、自治区の保護文化財11カ所がある。国は毎年これらの文化財の保護と修繕のために多額の資金と稀有で貴重な材料を投入している。1988年、国務院は正式に国内外に知られているポタラ宮の全面的修復を認可し、李鉄映国務委員が補修工事グループのトップとなり、計画工費は3500万元(約402ドル)とし、1992年になってさらに5300万元(約609万ドル)を追加した。この世界じゅうの注目を集めた補修工事の費用の多いことは、中国の古代建築物補修工事史上の新記録をつくった。1994年8月、ポタラ宮の補修工事は成功裏に完了した。

  80年代末までに、チベット自治区の考古学に従事する人々は区全域で石器出土地5カ所、細石器出土地30余カ所、新石器出土地と遺跡20余カ所を発見した。そのほか、ロカ、ナッチュ、ラサなどでトバン(吐蕃)期の古墳20余カ所(墓は約2000)を発見した。 

  1978年から1979年にかけて、チベット自治区の文化財管理委員会はチャムドのカロ新石器時代の遺跡を発掘した。4、5千年以前のものと見られるこのカロ遺跡では、大量の実物が発見され、その文化の特徴ははっきりしており、国内外の学界に高度に重視され、チベット自治区の原始文化を研究する面で画期的な意義があると見られており、チベット高原の考古学的発掘の面では明るい展望があるとされている。1984年に、考古学者たちはさらにラサ北部のチュゴン付近で新石器時代の遺跡を見つけた。発掘が立証しているように、それはチャムドのカロ遺跡の発見に続いて、今一つの重要な新石器時代の遺跡で、重要な研究の価値を持っている。

チベット族の民間文学・芸術の収集と整理の作業
 
 悠久な歴史を持つチベット族の民間文学・芸術は、鮮明な民族と地域の特徴を持っている。50年代において、漢民族とチベット族の文学者、芸術家はチベット族の民間文学・芸術の発掘、収集、整理を展開し、『チベットの民話』を編集して、出版した。 
1984年、中国共産党中央はチベット工作に関する指示の中で、「チベット族は古い独特な文化伝統を持ち、文学・芸術の遺産は豊富多彩で、歌にも踊りにもぬきんでた民族である。民族の文化、芸術を充分に尊重するとともに、科学的にそれを受け継ぎ、発展させ、文化財の古跡を保護しなければならない」と明確に指摘している。こうした指示にしたがって、チベット自治区の関係部門は多くの人力、物資、資金を投じて、計画通りに広く伝わっている民間の音楽、踊り、チベットの地方劇、民間歌曲、民謡、格言、寓言、神話、伝説、民話などに対して大がかりな収集、整理、研究を行った。1992年末までに、自治区はチベット族、メンバ族、ローバ族の民間の文学芸術資料(字数は億以上)を一冊の本にまとめ上げ、すでに出版されるあるいは間もなく出版される書籍には、『チベットの民話集』、『チベットの歌謡集』、『チベットのことわざ集』、『チベットの民間舞踊集』、『チベット民間の器楽曲集』、『チベットの演劇誌』、『チベット曲芸(演芸)誌』など民族の民間文学・芸術シリーズがあり、民族文化遺産の保護において全面的に効果的な応急措置をとった。

 ここで特筆しなければならないのは、新中国が設立してから『ケサル王伝 』の保存のために応急措置をとったことである。『ケサル王伝 』はチベット族の民間に広く伝わっている歌入りの講談タイプの英雄史詩で、内容が豊富であり、世界でもまれに見る長篇の史詩である。その内容はケサル王をはじめとする英雄たちが人民とともに、勇敢に凶悪な勢力と戦ったことを歌い上げたものであり、昔のチベット族社会の戦争、生産、生活、民族、宗教、道徳、愛情、家庭などを全面的に反映し、昔のチベット族人民の百科全書とも言え、高い美的価値と学術的価値があり、哲学、社会学、歴史学、文学、民族学、宗教学、美学などの研究のために貴重な資料を提供している。

 長期にわたって、『ケサル王伝』は主として芸人の口頭伝承で歌入りの講談のタイプで広く伝えられ、伝承が途絶える危険があった。そのため、50年代から、国はチベット、青海、四川などの自治区、省でこの史詩に対して応急措置をとり始めた。1978年以後、『ケサル王伝』は第6次五ヵ年計画期と第7次5ヵ年計画期の国の重点科学研究プロジェクトに組み入れられた。中国社会科学院民族文学研究所とこの史詩の広く伝わっている省・自治区はいずれも専門の指導グループと担当機構を設立し、手を携えて『ケサル王伝』の発掘、収集、録音、整理、研究、出版の仕事に取り組むと同時に、シンポジウム、民間芸人の講談の会を催した。チベット自治区を例にとってみよう。1978年から1988年までの10年間には、全面的調査を通じて、内容の違う歌の入った講談異本180余り、刻本、手書き本、謄写版刷りのもの55種(合わせて83部)が収集され、整理されたものは、第一部7冊、18大冊、149小冊など、合わせて174がある。芸人の歌入りの講談を70冊録音してテープ3000余ケースを制作し、民間に言い伝えられているケサルの遺跡をいくつか見つけ、11点の「ケサルとかかわりのある実物」、ケサルに関する民間の言い伝えを30数カ条発掘した。約100万行、1500万字の本を80冊にまとめることができると見られている。現在までに、すでに20数冊の本が出版されている。そのほか、半世紀以来のケサル研究の成果を集中的に反映した『ケサル集』も最近出版された。

チベット学古籍の出版事業
 
 中国の各民族の文字で書かれたチベット学の古籍は数えきれないほどあり、今世紀20、30年代において、旧中国で系統的にチベット学の古籍を整理することをめざし、いろいろと努力が払われてきたが、必要な条件を揃っていなかったため、その願いがかえられなかった学者もいた。 

  新中国が成立してから、とくにここ十数年来、中央と地方の各関係研究機構、出版部門はチベット学の古籍への応急対策、整理、出版に力を入れた。統計によると、80年代末までに、全国各地が出版したチベット語の古籍は200余種、百万冊に達した。そのうち、『青史』、『赤史』、『智者の好む宴会』、『チベットの王臣記』、『朗氏家系図』、『サキャ家系史』など歴史的名著だけでなく、宗教、文学、詩歌、文芸理論、文法などの代表作もある。『四部医典』、『暦算派典』など科学技術の文献も出版された。 

  チベット語の原著を除き、チベット語の史料選集も出版された。例えば、『チベット歴代公文書選集』、『チベット歴代法規選集』、『中国チベット地方歴史資料選集』などがそれで、チベット語の史籍でしか見られない歴代の重要な歴史文献を収録されている。 

  『中華大蔵経』は『ガンチュル』(チベット語)と『ディンチュル』(注解)とともに、伝統的チベット学の百科全書である。1987年に、中国チベット学研究センターは成都で大蔵経校勘局を設立し、さまざまな『大蔵経(ディンチュル)』の異本に対して比較校勘を行い、16ページ上製本158冊の権威ある『大蔵経』の対照本を出版することになり、漢字の『中華大蔵経』とともに貴重なものになるだろう。現在、この雄大なプロジェクトが進められており、第一巻は年内に中国チベット学出版社から出版、発行される。チベット語の古籍を整理、出版すると同時に、漢字で書かれたチベット学の文献の整理、出版でも大きな成果をあげた。すでに出版された漢字の古籍には、隋・唐の時代から民国期に至る実録もの、保存公文書、上奏書、方策、地方誌、旅行記、筆記、日記などを含む200種以上、百万冊がある。その中には、まれに見るものか、ひいては伝承が途絶えそうになっている一冊しか現存していない古書、善本、手書き原稿もある。『全唐文全唐待吐蕃料史』、『通鑑吐蕃史』、『明代実録チベット族史料』、『清代実録チベット族史料』、『チベット奏疎』、『清代末期四川・貴州国境事務保存公文書資料』、『明・元代チベット事務電文原稿』、『第13世ダライラマ円寂祭と第14世ダライラマ転生座床保存公文書選集』、『第9世パンチェンの内地での活動及び帰途で阻害を受けたことについての保存公文書選集』、『チベット事務処理に関する黄慕松、呉忠信、趙守ト、戴伝賢の報告書』などは、チベット学研究者にとって不可欠の重要文献資料である。

  チベット族、漢民族など各民族の学者の密接な協力と共同の努力のおかげで、チベット語と漢字のチベット学の古籍の相互翻訳作業も大きな成果をあげた。 

  チベット語と漢字で書かれたさまざまな古籍を出版することは重要な意義がある。それはチベット学を研究している人々に豊富な歴史の資料を提供しただけでなく、 「チベット独立」の陰謀を暴露し、祖国の統一を守ることに確固とした、有力な証拠を提供するとともに、重要な歴史的文化財をも保護することでもあった。旧チベットでは、多くの珍しい著作は1、2冊の手書き本しかなく、それを木刻版にして印刷するとしても、その伝播の範囲も非常に狭いという特別な論評を書いた人もいる。近代のチベット地方政府は歴史文献を密封して保存し、一般の人は自由に目を通すことができなかった。数百年にわたって目を通すことが制限されてきたチベット語の典籍は新中国が成立してから、さまざまな装丁の精緻な活字本に制作され、広範囲で発売され、再びチベット族の人々の手に戻るようになった。 

チベット学研究の学術成果 

 冒頭で述べたように、広義から言えば、中国のチベット学には長い歴史があり、1、2千年前までさかのぼることができる。しかし、科学的な意義を持つ近代的チベット学研究は新中国が成立してから、確立されたものである。新中国のチベット学と伝統的チベット学との根本的な違いは、まず、新中国のチベット学研究者は現代科学の理論と手段でチベット族とその社会の諸方面を分析、研究し、チベット学研究を新たな段階に高めたことである。次に、新中国のチベット研究は伝統的チベット学の大五明(工巧明、医方明、声明、因明および内明)と小五明(詩詞、語彙、音韻、劇曲、暦法)の範ちゅうを突き破り、チベット族とその社会の諸領域(政治、経済、民族、歴史、宗教、哲学、言語、文字、文学・芸術、法律、制度、教育、考古学、民俗、医薬、暦法、製造技術などを含む)を全面的に研究することにまで広がるようになった。その中の主なものは社会科学であるが、若干の自然科学の内容も含まれ、総合的学科体系である。

 紙面の制約もあるため、本文は新中国のチベット学研究者が上記の分野であげた研究成果について詳しく紹介することができず、上記の説明は簡単な要約にすぎない。 

 おおまかな統計によると、40数年来、中国のチベット学界の人々が書いた論文、文章は約6000もある。そのうち、一部は『中国チベット学』、『チベット研究』、『中国チベット』、『外国におけるチベット学の動き』、『チベット社会発展の研究』、『雪国の文化』、『チベット芸術研究』、『チベットの教育』、『チベットの仏教』などのチベット学の刊行物に発表された。そのほか、国内の多くの関連ある学術刊行物、新聞もチベット学論文の発表に紙面を提供し、チベット学論文の特別出版を行ったケースもある。

 中国のチベット学界の専門家、学者が出版した各種学術専門著作は百種以上に達し、『チベット通史』、『チベット略史』、『チベットの政教一体制度を論ずる』、『蒙古・チベット関係史』、『清政府とラマ教』、『ダライラマ伝』、『チベット地方は中国の不可分の一部』、『外国のチベットへの侵略、干渉に反対する中国の地方闘争史』、『チベット革命史』、『チベット封建農奴制の形態』、『チベット宗教史』、『チベット仏教発展の略史』、『チベット族文学史』、『チベット語簡略誌』、『漢語・チベット語概論』、『現代中国のチベット』、『チベット――非典型二元化構造の下の発展・改革』などの著作はいずれもより深く掘り下げた研究を基礎に踏まえて、チベット学研究の関係分野の問題を解明したものである。そのほか、数十種類の辞書、図書目録などが出版された。そのうち、特筆すべきものは、今は亡き張怡遜教授が編集長となり、約60人のチベット学の専門家が編纂した『チベット・漢語大辞典』である。この辞典は漢語とチベット語を明解し、単語5万3000を収録し、計300余万字からなり、国内外で収録語彙が最も多く、高い学術的価値と使用価値を持つ百科全書のような辞典である。『チベット・漢語大辞典』が出版されてから、国内外のチベット学界の間で好評を博し、「チベット学発展史における一里塚としての労作」とたたえられている。

国内外の学術交流 

 チベット学研究事業の発展を促進するため、中国のすべてのチベット学研究機構と科学研究要員はつねにさまざまな学術交流を行い、毎年規模の異なったチベット学学術会議を何回か開き、つねにさまざまな特別テーマの講座、セミナー、研修コースを開設し、訪問学者を互いに派遣し合い、いくつかの重要な科学研究プロジェクトについて共同研究を展開している。 

  1980年以来、中国のチベット学界の対外学術交流は日増しに頻繁となり、国外で開催されたチベット学国際会議ではほとんどどこでも中国のチベット学学者の姿が見られる。中国のチベット学の専門家はしばしば招きを受けて国外に赴いて学術視察を行ったり、訪問したり、学術講座を担当したり、共同研究を行ったりしている。同時に、中国を訪問してさまざまな学術交流活動に参加する外国のチベット学研究者もますます多くなっている。中国チベット学研究センターが発足以来、延べ数百人の外国の学者と香港・台湾の学者を受け入れている。また中国でチベット学を勉強している国外の研修生、留学生も少なくない。ここ数年来、中国チベット学界は北京、ラサなどで何度も国際学術会議を開催し、これらの会議に出席した人たちの中には、イギリス、アメリカ、フランス、日本、インド、モンゴル共和国、チェコ、旧ソ連などと中国の台湾・香港地区の学者もいる。中国語に翻訳されて中国国内で発行されている国外学者の著作もいくつかある。中国のいくつかのチベット学研究機構は国外の学術機構と協力・交流の取り決めを結び、国際学術交流を制度化している。上述の交流を通じて、国内外の学界の人たちの間の相互理解と友情を深め、チベット学事業の発展を促している。中国政府の対外開放政策の指導の下で、中国のチベット学界と国外の学界の人たちとの学術交流はより広い領域で順調に発展し続けることであろう。

 本文を終えるにあたり、筆者は関係部門の協力を得て、中国が『チベット学図書目録』を間もなく出版するということを耳にした。チベット語、漢語、英語で出版される同書は全面的かつ系統的に新中国成立40数年来の中国のチベット学界の学術の成果を反映するものである。人々はこの本に目を通しさえすれば、チベット族の文化財の保存、チベット族の優れた伝統文化の発揚、チベット学研究の発展の促進に対して新中国が払った努力とその成果に対して深い感銘を覚えることであろう。そしてそれはまた本文の手落ちといたらない点を補いうるものだとも思うのである。