天壇は昔、天を祭った場所である。人々は天に祈願ができたが、天を祭るのは天子だけの特権だった。中国の正史『二十四史』の「帝王本紀」に、祭天儀式の様子が毎年のように記載され、三皇五帝(中国の伝説上の帝王たち)が盛大に執り行ったと今に伝える。
現存する祭天台は、最古のもので6000年の歴史をほこる。2000年以上前に編まれた礼書の『周礼』には、祭天の儀礼制度が示されている。こうした祭天活動は、封建制の社会では一貫して行われていた。儀礼制度が整うにつれ、祭天用の建築物もしだいに規模を拡大したのだ。
天壇は、明の永楽4~18年(1406~1420年)に建設された。はじめは「天地壇」と呼ばれたとおり、天と地をいっしょに祭った。明の嘉靖9年(1530年)には、別の地に「方沢壇」(地壇)を建築し、天と地を分けて祭った。
清の乾隆年間(1736~1850年)になると、増改築が進められた。天壇は明・清代の皇帝が、天を祭って豊穣を祈る場として造ったものだ。建設されてから数百年の間、二十数人の皇帝が、盛大な祭典儀式を行ったのだ。
天壇は内壇と外壇に分かれ、主な建築物は内壇で、祭祀の行事は主に内壇で行われる。南には圜丘、北には祈年殿がある。真中は「神道」と呼ばれる高くて幅の広い石を敷き詰めた道。天壇の南側は四角形、北側は円形を呈しており、昔の中国人の、天は円形で地は四角形という宇宙に対する考え方を象徴するものである。
天壇の中で最も雄大な建築物は五穀豊穰を祈る本殿の祈年殿で、丸くて白い3重の土台の上に、頂上部にはかわらが葺かれ、金めっきを施された3階建ての宮殿が高く聳え立っている。本殿の中には珠と戯れている竜の図案が精緻に彫られており、地面の真中にある大理石もそれと呼応しているようである。竜が珠と戯れている図案は、天人合一哲学思想を象徴するものである。
圜丘が南側にあり、これは皇帝が冬至の日に天を祭る所で、「拝天台」とも呼ばれる。天壇は丸くて天を象徴するものであり、3重に分かれ、それぞれに嵌め込まれている石塊や周りの板、階段の数はみんな9の倍数となっており、天は9重であることを象徴している。真中には「天心石」と呼ばれる丸い石板があり、その上に立って大声で話をすると、はっきりと聞こえるこだまが即座に跳ね返ってくる。
圜丘の北にある皇穹宇は位牌を置く場所である。丸い本殿と東西両側の建物は丸い壁に囲まれ、壁の内側はなめらかで、声がそれに沿って伝わることができるので、「回音壁」と呼ばれ、天壇の奇異な景観となっている。
これらの主要な建築物のほかに、斎宮(皇帝が天を祭る前に沐浴して、精進料理を食べて泊まる所)、皇乾殿(祈穀壇のためにお経を祭る所)、神楽署、燔柴炉、具服台、宰牲亭、神厨などの付属建築物もたくさんある。1998年にユネスコの『世界の文化遺産』に登録された。
「チャイナネット」2008年11月22日
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