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環極楼――大きな地震に備えるためのとりで

 

 
 

環極楼は南中村に位置する。創建者は蘇卜臣という人で、清の康煕の頃の癸酉年(1693年)に建てられたものである。この建物は土木構造で、規模が大きく、壮観な円形の村落の形をなしている。建物全体は4層からなり、高さは約20メートル、直径は43.20メートル、周囲の長さは130メートル、底層部の壁の厚さは1.70メートル、壁の上端の厚さは0.9メートル。1階には32の部屋(炊事場と食堂として使われていた)があるほか、比較的大きな入り口と正面の広間がある。2階には34の部屋(倉)がある。3、4階にはそれぞれ34の部屋がある。建物の内回りの部分に広間2・部屋10(応接間)と男女の浴室それぞれ2つがある。建物内の回廊の幅は1.56メートル、建物外の軒廊下の幅は1.82メートル。建物の正門の高さは2.96メートル、幅は3.4メートル、扉には鉄板が釘付けされている。建物の内外にそれぞれ井戸が1つある。建物の外の付属建築物にはさらに寝室16間、馬小屋8間、米をつき、製粉するための部屋6間がある。環極楼全体には現在21世帯、116人が住んでいる。

 

「環極楼」という名称については、北極星が北辰星ともいわれ、子の位置(昔、中国の暦法は干支で年、月、日、時間を示し、干支は10干と12支に分かれ、10干は甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、12の支は子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、干と支を組み合わせると、60組となり、それで年、月、日、時間の順位を示し、さらには天文学の分野にも用いられ、現在、旧暦の年は依然として干支を使っている)にあって午の方向に向かっており、長期にこの位置にあってその移動が見られず、天体のすべての星のぬしであり、ある人は詩の中で、「川があれば必ず東へ流れ、北極星を取り囲まない星はない」と言い、その意味はすべての星が北極星を取り囲んで回転するものである。この楼は北の壬子の位置にあって丙午の位置に向かっているため、「環極楼」と名付けられたという。いま1つの説は、回りは円であり、「円(環)」は吉祥の意味のある言葉であり、「環極(北極星を取り囲むこと)」は、吉祥(団らん、円満)を極めることを願うというもの。

 

環極楼の最大の長所は耐震性が強いことである。300年来、地震を何度も経験し、県誌の記載によると、1918年2月13日(民国7年の旧暦1月3日)に永定にはマクニチュード7の大地震が発生し、近くの田の泥水が何丈(1丈は3.33…メートル)も噴き上がり、屋根の上のレンガや瓦のほとんどが飛び下し、余震が数回起こり、10数分間も続き、環極楼の正門上方の3、4階の厚い壁に震動で長さ3メートル以上、幅約20センチのひびが入った。しかし、地震の後で、この円形の建物は求心力と構造の牽引作用により、割れ目は意外にもだんだんとせばまり、わずか1本の細長いひびしか残らず、建物の主体は無事で、依然として高くそびえ立っている。ある日本人は見学の後、「このような建物が私達の東京に建てられたらなによりですね!」と 語っていた。環極楼の中心点に立って、力を入れて足を踏みならすかあるいは声を大きくして叫び、歌うなら、非常にはっきりとしたこだまがはねかえってきて、北京の天壇の回音壁のようである。

 

環極楼のいま1つの特異な点は建物の中心部の回りに祠堂(先祖を祭るほこら)が設置されておらず、広い中庭となっている。これは永定の多くの土楼の中でまたとないものであり、礼儀を重視し、儒教の倫理規範を守る封建社会ではさらに不思議なことであった。このため、環極楼はまた「親不孝の楼」とも称されている。人々は環極楼の建築芸術のために感嘆する時、建築家の創造性に富む反逆精神に敬服しないものはいない。

 

「チャイナネット」2008年11月10日