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棠樾の牌坊群
発信時間: 2009-01-14 | チャイナネット

 

牌坊は、歴史が黄山に授けた勲章である。黄山(徽州)はかつて俊才を多く輩出し、李廷珪、朱熹、畢升、胡開文、王茂蔭、戴震、胡適、陶行知、黄賓虹など傑出した人物を生み出してきた。歙県だけをとっても、明・清時代に542人の進士(科挙の殿試に合格した者)、1531人の挙人(郷試に合格した者)を生み出している。特にこの地は程朱理学の故郷であり、女性は封建時代の「節烈」の考えに強く縛り付けられ、『儒林外伝』の王家三姉妹を代表とする節婦烈女が数多く生まれた。古い時代はこういった「忠孝節義」の「優秀」な人物を表彰するために牌坊を大量に建設した。このような歴史の遺物は度重なる破壊に遭遇してきたものの、今なお100基余りが完全な姿で保存されている。棠樾の牌坊群はその代表である。

棠樾の牌坊群は、明代の3基、清代の4基、合わせて7基の牌坊が順番に並び、封建社会の「忠孝節義」という倫理観を描き出している。明代の牌坊の一つは皇帝が徽州商人の鮑寿遜父子を表彰して立てたもので、横梁に「御制慈孝里」という字が大きく刻まれている。

史書によると、元代、歙県の守将・李達が反乱を起こし、暴虐を尽くしていた。棠樾の鮑寿遜父子も反乱軍に捕らえられ、どちらか一人が殺されることになった。どちらが死ぬかは二人にゆだねられたが、二人は争って相手を生かそうとした。さすがの反乱軍もこれに感動し、二人を殺すことはできなかった。後世、朝廷は二人を表彰してこの牌坊を立てた。清の乾隆帝も鮑氏宗祠に「慈孝天下無双里、錦秀江南第一郷」という言葉を贈ったという。

さらに伝えられているところによると、棠樾の鮑氏一族は「忠」「孝」「節」の字が刻まれた牌坊を持っていたが、「義」の牌坊だけが欠けていた。鮑漱芳の時代になって、淮南と淮北の塩運使に命じられ、江南の塩業を手中に収めた。鮑漱芳は皇帝から「義」の牌坊を賜りたいと考え、祖先の名を上げるために、穀物10万担、銀3万両を納め、堤防800里を築き、3省の軍人の俸給を負担した。これによって朝廷から牌坊を賜ったという。

棠樾の牌坊群の傍らには二つの祠堂がある。一つは「鮑氏敦本堂祠」で俗に「男祠」と呼ばれ、もう一つは「鮑氏妣祠」でまたの名を「清懿堂」と言い、俗に「女祠」と呼ばれる。これらは徽州の宗法制度や徽州商人の歴史を研究する生きた教材であり、特に「女祠」は「女人は祠堂に入ってはいけない」という旧例を破ったもので、非常に珍しい祠堂である。

「チャイナネット」2009年1月14日

 
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