林国本:中国も近代化してきた

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発信時間: 2009-03-11 11:14:40 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

筆者が国際ジャーナリストの世界の一新兵として中国の週刊誌に就職した頃には、まだ改革・開放が実施される以前のことで、中国は今日のように豊かになっていなかった。それでも上の方に日本の事情に非常に詳しい、戦前日本に留学し、盧溝橋事変以後帰国して、八路軍に馳せ参じた人たちがいたおかげで、筆者は日本の大手数紙、数種類の週刊誌、「中央公論」「文芸春秋」などの月刊誌を読める環境で、自分の好きな仕事に打ち込んできた。その後、先輩や同僚たちがいろいろ個人的な事情でさってしまったこともあり、最終的に創刊に参加したことのある人間は三人しか残らなくなり、筆者は自分の仕事が好きで好きでたまらなかったので定年まで頑張りつづけた。定年後も、趣味のひとつとしての国際会議の同時通訳の仕事などを楽しみながら同じような分野で頑張り続けてきた。そして、ツイていたのか、後輩たちに請われて、「チャイナネット」の創立以前の企画段階から、その一角で21世紀の新しいジャーナリズムとも接点を保ってきた。筆者は、これまでの人生の中で三度も「創立以前」のパイオニアとしての模索を体験することができた幸せな人間である。現在は、健康維持のために、大学での講義など若者と触れ合うことのできる有益で、面白い仕事も遠慮して、フリーランサーとして呑気に楽しんでいる。

このまでの人生をふりかえってみると、世の中の大きな変化を感じないわけにはいかない。

駆け出しの頃は、中国は外貨保有高に限りがあり、日本を訪問してデパートに行っても、まさに「ひやかし」だけで、第一、ショッピングをする「元手」が財布に入っていない。さいわい、伝統教育を一応受けていたので、「自由主義国」の豊かさに、「誘惑」されることもなかった。かつて日本にも「欲しがりません勝つまでは」という言葉があったように、まさに「社会主義が実現するまでは欲しがりませんであった」。

その後、特派員として日本に6年間も滞在することになったが、それでも私は個人としては書店めぐりが最大のたのしみであった。だが、北京にいるときのように、パッパッとおカネを使うことはなかった。国内にいればかなりぜいたくな人間の私は、日本にいるときのような始末な生活はこれまでのところしていない。

しかし、世の移り変わりというものははやいもので、今では日本料理店、居酒屋、おでんのお店もあるし、最高級のフランス料理、イタリア料理のお店が何軒もある時代になった。そして、わが家の次ぎの世代はクルマ二台、ゴルフ三昧の暮らしをしている。冷蔵庫やテレビも使い捨ての時代になったし、「ドンキホーテ」のようになろうと思えば、ファイブ・スタークラスのホテルに泊まって、旅行することもできるようになった。ヨーロッパ系の会社につとめている子供の同窓生らは、別荘を二つももっているご身分である。

しかし、アメリカ民謡「オールド・ブラックジョー」にあるように、「若き日早し過ぎ去りぬ」である。私と同じ世代の知人の中には若い頃から宴会、パーティーの連続で、ひどい成人病にかかっている人もいるし、寝たきりになっている人もいる。豊かにはなったが、ムリをしてそれを享受しすぎると、寿命をちじめることになりかねない。

でも、次の世代が豊かな暮らしをしてくれれば、いいではないか。さいきん、海外旅行がさかんになり、高価なアクセサリー、高級な化粧品を買って帰る人も増えている。

こんなに早く近代化のメリットが享受できるとは思っていなかったことはたしかだ。

そこへ国際経済危機という津波が襲ってきた。この異変はさいわい中国発ではないが、やはりかなり影響が及んできているようだ。しかし、少なくとも大都市ではまだのんきに楽観視している人もいるが、大卒の就職問題や出稼ぎ労働者の再就職、「三農問題」の農村、農民、農業とかかわりのあるさらなる近代化にとっては、かなりのボトル・ネックとなるのではないか。

近代化の恩恵を、それぞれ、いろいろな形で享受しながら、次ぎの30年の飛躍の途上に横たわる阻害要因を乗り越えることを考えながら、近代化の第一段階をふりかえってみた。筆者のように「欲しがりません、社会主義が実現するまでは」からスターバックスのお店でエスプレッソを飲みながら、若者たちとダベるという二つの時代を体験しているが、十年ひと昔という言葉の意味をよく知っている、と自負している。でも、高校生の頃から、もうアメリカ留学のために塾に通っている人たちがいる昨今の変容ぶりをみていると、隔世の感がある。

 

「チャイナネット」2009年3月11日

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