国連環境計画調査によると、土地の砂漠化は地球規模で進行しており、今や人類の生存と発展に大きな脅威を与えているという。
この中国でも、西部と北部の広大な地域が同じ問題に直面している。北京から東北へ約340㌔、ホルチン砂漠とフンシャンダク砂漠にはさまれた内蒙古自治区の赤峰市では、全市面積9万平方㌔の半分以上が砂漠と化しつつあるが、450万市民は過酷な自然条件と戦い、「緑の障壁」の造成にみごと成功した。そのいくつかのエピソードを以下に紹介しよう。
砂漠ではない、庭園だ!
私たちは「中華緑色行記者団」が最初に訪れたのは、赤峰市の東南、ホルチン砂漠の南部にあるアオハン旗(旗は内蒙古自治区の行政区画で、県に相当)だった。アオハンとは、モンゴル語で「長男」の意味。その名の通りアオハン旗は、赤峰地区の防砂・造林プロジェクトを推進する「長男」の役割をはたしている。
史書によると、古代の赤峰は雨量が多く、湿度が高く、森林もよく繁って、資源が豊かだったという。だが度重なる戦争や移民たちの乱伐によって森林面積が激減し、生態環境は悪化の一途をたどった。
70年代末には、アオハン旗の森林面積は旗の総面積のわずか10%に減少し、逆に水土流失面積は77.3%にも上がった。移動・半移動砂漠は年に4700㌶の速さで増加していた。これは、毎年一郷分(郷は、県の下に位する行政単位)の耕地が消滅していった計算になる。旗全体の食糧生産量は一㌶あたり375㌔にも達せず、毎年国から大量の救済食料が支給されていた。
1981年5月、開通してまもない京通鉄道(北京―通遼)がアオハン地区で砂漠のため埋没、72時間も不通になる事故があり、全国に大きな衝突を与えた。ホルチン砂漠に抜本的な対策を講じなければ、百年後には瀋陽まで埋まってしまうおそれがある、と警告する専門家も現れた。鉄道だけでない。家、牧場が流砂に埋まったため、多くの人が仕方なく他郷に移っていった。
「砂に攻めたてられ、人はただ退くのみ」という厳しい現実に直面して、アオハンの人々は、風と砂を防ぎ水土流失を根絶することの緊急性を痛感した。彼らは、70年代末から1998年まで、年平均2万㌶以上のペースで防砂造林に取り組み、その結果森林面積は34万5000㌶と、旗の総面積の41.6%に増加した。そのうち造林面積は34万㌶で、全中国のトップに立った。一人あたり樹木蓄積量は9立方㍍に達し、「緑の銀行」に2400元の貯金を作ったのと等しいと言われた。
さきほど国連が地球観測衛星によってまとめたデータによると、中国の東北地区で緑色が広範囲に見られるのは、大興安嶺と小興安嶺以外ではアオハンしかなかった、という。それはまさに、20年近い努力の成果だった。
アオハン旗の一角、黄羊灘牧場の高地に立った私たちは、眼下に広がる壮観に思わず感嘆の声を上げた。何本もの美しい緑のベルトが、広大な平原のはるかかなたまで伸びていた。そのベルトに囲まれて肥沃な牧場が展開し、ウシやヒツジの大群がゆうゆうと草をはんでいた。大自然の景観に陶酔したことは何度もあるが、ここに私が見たのは、人間の創造力の偉大さであり、人間と自然とのすばらしいハ[モニーであった。
国連環境計画で「砂漠化防止条約」の事務局に勤めるカール・ポルドンさんも、この3万㌶の防砂林と牧場を見てうなった。「これはもはや砂漠ではない。ヨーロッパ貴族の庭園だ!」
昔の黄羊灘も豊かな草地で、たくさんの黄羊(オウヨウ、蒙古地方に産する野生のヒツジ)が棲んでいたので、この名がついたという。しかし、風や砂が絶え間なく襲い、砂漠化が進んだ。農業と牧畜業は重大な打撃を受け、人々は貧困にあえぐようになった。こうした状況を改善しようと、旗独自の造林計画が立案される。旗の共産党委員会書記と旗キをリーダーとする造林指揮部ができた。幹部たちが責任を分担して請負い、賞罰を明らかにし、結果を出さない者は免職することにした。専門技術員の指導のもと、幹部だけでなく旗の人々すべてが侵食を共にし、昼夜を分かたず奮闘した。
1988年から黄羊灘で造成された共栄牧場の防砂林は、今日までに3400㌶に達し、3万㌶の牧場が保護されるようになった。1988年と比べて、防護林内の牧草は平均15㌢伸びた。牧草の収穫量は40%増えた。植被の厚さと牧草の質も明らかに改善された。ここ数年、牧草収穫量は年間24000㌧に上る。一㌶の牧場で一匹のヒツジさえ飼えなかったという状況は、もう完全に過去のものとなったのだ。
食糧生産も一変した。「一枚の畑に種をまいても、収穫は鍋一杯の穀物だけ」と言われていたのも昔の話。森林に守られた13300余㌶の農地は、年に4万㌧の穀物を生産し、穀物や牧草はすべて自給してなお余裕を生じるほどになっている。
黄羊灘プロジェクトは国家林業科学進歩賞の二等賞を受賞し、アオハン旗も「三北防砂林プロジェクト先進県」「全国造林緑化先進県」「全国食糧最高10県」に選ばれた。
防砂で一財産つくる
次に私たちは、赤峰市から北へ約100㌔、オンニュド旗の東にあるタバンウス村を訪れ、張子忠さんという牧民に会った。赤いトレーナーを着て、年齢は50前後と見えたが、ほっそりとした顔に深く刻まれたしわが、長年の苦労を物語っていた。家は瓦葺きで、まだ新しい。庭先から緑の水田が遠くに伸び、養魚池にはポプラがゆらゆらと影を落としている。まるで江南の水郷にいるかのようだった。
奥さんは小学校の先生、息子が二人いて、長男は軍人、次男は大学生。今は家族四人が豊かに暮らしているが、「昔はつらかったですよ」と穏やかな口調で話し出した。
砂流がひどいため牧場となる土地も牧草も少なく、タバンウスはこの地方でも有名な貧乏村だった。張さんたちも二間きりのあばら屋に住み、6匹のウシと15匹のヒツジを飼って、年収は1000元にもならない。流砂は年ごとに増え、草地は年ごとに減っていった。すっぽり流砂に埋まってしまった家もあった。
「もうがまんできない。一か八かだ。この砂と徹底的に戦おう」と、夫婦はついに決心する。1990年春のことだった。ウシとヒツジを半分売り、親戚にも助けてもらい、こうしてかき集めた6000元で、金網、杭、苗木、草の種を買った。村から請け負った17㌶の砂地で、一家四人は朝早くから夜遅くまで働いた。穴を掘り、杭を打ち、金網を張り、40日以上かかって第一段階が完了した。
続いて張さんは、30㌔も離れた防砂実験センターに歩いて行き、必要な技術を専門家から教えてもらった。ポプラ4000本と砂棘(日本にないグミの一種)2万株を植える作業が、また一家総出で始まった。雨季になると、メダケなど砂地を固める灌木を雨に打たれながら植えていった。砂丘は少しずつ緑のオアシスに変わり、生態環境が改善されていった。明らかに張さんは、成功の第一歩を踏み出したのだ。
だが、貧困から脱出して豊かになるためには、まだまだ努力が必要だった。彼は、成功例を学ぶため3回も他の農村に出かけて行った。村に戻るとすぐ金策にかかり、ようやく集めた2万元で砂地の改善にとりかかった。1993年から旗の林業局と牧畜局の技術員の指導を受けながら、防砂網で囲ったかつての砂地の回りに0.7㌶の防砂林を造成した。井戸を掘り、用水路を通し、サイロと家畜小屋を建てた。
二年余りの苦労がついに実った。造林した0.7㌶のほか、水田は0.5㌶に、飼料栽培地は0.6㌶に、養魚池は0.26㌶に増えた。井戸も四つになった。1995年から一家の収入は大きく増加した。米3㌧、飼料100㌧養魚3万尾などで、収入は合計して2万元を超えるようになった。固定資産も12万元に達し、村で最初の富裕牧畜民となった。もちろん、大都市近郊や沿海地区など経済発展地域の農民にはまだ及ばないが、張さんはきっぱり「もっとがんばれば、もっとゆたかになれますよ」と語る。
もう一つ感心させられたのは、村の人々に対する心遣いだ。貧乏と戦っている仲間のために金銭的援助を惜しまず、自身の経験や技術を教えたりしている。張さんのおかげですでに9世帯の牧畜民が砂地を改造し、貧乏から脱出している。
かつては荒涼としているタバンウス村が、今は良性循環の生活環境に一変した。植生面積は大幅に増え、草地の砂漠化をみごとに抑制した。農業、林業、牧畜業、
副業、漁業がバランスよく発展する枠組みができあがり、牧畜民の生活は大いに改善された。
草原に大リゾート村
オンニュド旗ブルド村にある「玉竜蒙古情緒リゾート村」が、取材団の訪問先となった。それは、数日にわたった私たちの労をねぎらうという、招待者側の心遣いでもあった。
蒙古族の住居であるパオ(移動式テント)が、砂地の上にいくつか立っていた。馬頭琴(胡弓に似た民族楽器)の悠揚たる調べが聞こえてきた。私たちを迎えた主人は、おいしい草原料理を用意してくれていた。なかでも、手でちぎって食べるヒツジ肉と馬乳酒が格別の味だった。若い男女が歌い、酒をすすめてくれ、また最高の歓迎のしるしとしてハタ(長い絹布)を贈ってくれた。
昼食後、私たちは草原を散歩した。湖があり、船に乗って対岸に渡った。そこにも草原があり、ウシの群れがのんびり草をはんでいた。私たちも砂浜で寝転び、青空をぼんやり眺めた。
しかし数年前まで、こんな情景は「夢」だった、とリゾート村事務所の話。ここはまだ、流砂が暴威を振るう果てしない荒れ地だった。沼地と砂丘が連なり、植生はまばらで、農民も牧畜民も生活に苦しく、平均年収はわずか400元にも満たず、典型的な貧乏村だった。
1990年代に入って、砂地改造の計画が決まった。村の地勢を考案して、飛行機から種をまき、造林と草地の育成を進めることになったのだ。早く発芽し、早く根付き、乾燥に強く、砂を固定させる力の強い草として、ムレスズメなどいくつかが選ばれ、91年から98年までの7年間に飛行機からの播種で9300㌶の造林が進められた。これは全緑地の90%に上り、これによって風砂の被害から免れた牧畜民は140世帯、湖水は1000㌶、草地は6700㌶に上る。また年産15000㌧もの上質の干し草が生産され、300万元の収入を生んでいる。
砂地が改造され、人々の暮らしは一応の安定を見た。だがさらなる発展を短期間に実現するには、どうすればよいか。その新しい課題に、村の幹部は直面した。95年、党支部書記の秦広瑞さんは、赤峰市党幹部養成学校で行われた研修期間中に、観光業について重点的に実地調査した。村に帰ってから他の幹部と慎重に検討を重ね、ブルドを観光開発の対象地に選んだ。北京、天津、瀋陽などの大都市に近い天然の草原であること、北に屏風山、南に数百㌔の湖、東に砂山、西に放牧地という景観に恵まれていること、「赤峰紅山文化」の代表的文物である「玉竜」の出土地にごく近く、紅山文化の発祥地と考えられていること。ブルドはそうした多くのメリットを備え、他の候補地を圧していたのだ。
続いて彼らは、専門家に委嘱して全体プランを決定し、資金を調達し、建設にとりかかった。パオを建て、ボートを買い、馬場やサンドスキー場などを造り、接待係を養成し、今見るような施設が完成したのだ。
97年にオープンして以来、リゾート村は年間延べ40000人の観光客を迎え、年収100万元余り、年平均利益40万元を上げている。ブルド村の経済も新しい発展段階に入り、全村の牧畜業収入は600万元、牧畜民の一人平均年収は1900元に達した。村の生活状況は、「貧困」から「小康」に向上した。
率直に言って、ブルドの観光事業はまだ初歩的な域を出ず、設備の整った観光地に及ばない面がいくつかあることは事実だ。しかし経営者たちも、現状に満足しているわけではない。紅山文化ランド、水上レジャーランド、生態観光ランドといった施設を数年のうちに新設し、リゾート村を充実させてゆくという。「そのときは、またぜひいらしてください」と彼らは明るく語るのだった。
赤峰ミニ資料
位置
内蒙古自治区東南部にあり、市の東南は遼寧省朝陽市に、西南は河北省承徳市に接する。自治区の区都ホフホト市からは620㌔離れている。
面積
89361平方㌔
人口
392万人
民族
蒙古族、漢族、回族、朝鮮族、チワン(壮)族など。
沿革
清の崇徳4年(1639)ジャウダ盟(いくつかの旗、県、市などを管轄する内蒙古の行政単位)を置く。1945年熱河省に編入されたが、1955年内蒙古自治区の管轄となり、1969年遼寧省に編入された後、1979年内蒙古に復帰。1983年、市に昇格。紅山など3区、寧城など2県、アオハン、オンニュドなど7旗に分かれる。
地理・気候
三方を山に囲まれ、西高東低の地勢。ウーアルジムロン、シャルモロンなどの川が流れる。年平均降水量は西、南部で450ミリ。年平均温度は6度、1月は氷点下15度、7月は20度。北温帯半乾燥気候に属する。
観光名所 玉竜蒙古情緒リゾート村、紅山文化遺跡、寧城大明塔、遼中京城遺跡、カラシン旗王府、遼太祖陵、遼祖州城石造家屋など。
防砂造林概況
森林面積は建国初期の45万㌶から200万㌶に、市面積の5%から22%に増加。砂漠総面積の60.3%に当たる154万3000㌶を防砂開発。1960年代と比較した生態環境の変化は、無霜期が年間9.4回減少、平均風速が秒速0.52㍍低下、砂嵐の日数が60%減少、1億1000万㌧たった年間泥砂流失量が5000万㌧に減少。
(『人民中国』2000年3月)