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安順――明代の兵士の子孫が生きる
安順の歴史は春秋時代(前770〜前476年)にまでさかのぼる。そのときは牂牁国に属し、戦国時代(前475〜前221年)には夜郎国に属した。中国には「夜郎自大」という成語があるが、これは身のほどをわきまえずに威張ることを指し、漢時代(前206〜220年)に西南にあったこの夜郎国の君主が漢からの使者に向かって漢と夜郎国とどちらが大きいか聞いたという故事からきている。

1976年から78年に行われた発掘で、安順北部の普定県では、貴重な文物のほかに16600年から8000年前の旧石器時代のものと思われる人類の頭骨が出土した。安順にはこのときから集落があったのだ。

安順は昔から「黔(貴州省)の腹、滇(雲南省)の喉」と呼ばれる軍事上の要衡で、軍事家はいつの時代もこの地を争った。そう言えば、この辺りではとりでのような石造りの民家をよく目にする。

この地方に住む漢族の助成の服装も独特のものがあり、地方劇が広く住民の間に親しまれている。俳優はみな農民で、木彫の仮面をつけて古い劇を演じる。こうした文化はすべて「屯堡」から産まれたものと言ってよい。

安順から15㌔離れた本寨という村には高さが普通の2倍以上ある石造の民家があちこちに建っている。これが典型的なとりで型の「屯堡」だ。

あぜ道に沿って村に入ると、ちょうど収穫の真っ最中だった。村の建物をよく見ると、住居は立派な門構えの三合院が四合院だ。門の上部にはめでたい図案が彫刻されている。門を入ると三方を木造の二階建ての家屋に囲まれた中庭である。窓枠や壁には細かい彫刻と丁寧な装飾が施されている。

明代の初め、朱元璋は反乱を平定するために、洪武14年(1381年)と洪武21年(1388年)の2回にわたって西南の辺境を守る兵隊を派遣した。このとき、江南やさらに北方の各地から、多くの人々が貴州に移動し、そのままその土地に住み着いた。明代の古い習俗を多く残す独特の「屯堡」文化は、閉ざされた空間の中でゆっとりと長い時間をかけて形成されてきたのだ。

 

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