鶴園は韓家巷4号に位置し、1963年に蘇州市保護文物指定を受けている。
清の光緒33年(1907年)の初め頃に役人の洪鷺汀がつくったもので、寒山寺にちなんだ詩で知られる兪樾が「携鶴草堂」という額を題したことで「鶴園」と名付けられた。庭園内の池の水は鏡のように透き通っており、虹のような長廊が造られ、あずまやは築山と石の間に見え隠している。庭園が完成する前に洪鷺汀が蘇州を離れたため、庭園は一時農務局に使用された。その後、呉江の龐屈廬に買い取られ、その孫の龐蘅裳氏が再建し、当時の文人たちの集う場所となった。詞人の朱祖謀氏もこの庭園に住んだことがある。庭園内には朱氏の植えた宣南のムラサキハシドイがある。満開のときには際、香りが庭園にあふれ、人々を酔わせる。龐蘅裳は庭園に住んでいたため、鶴園の発音にちなみ鶴縁という号をつけたので、その住んでいた部屋を「棲鶴」と呼んだ。
1924年に金松岑氏が『鶴園記』を書いた。その当時、園の中で文芸の集いが盛んで、呉梅、張紫東は昆曲伝習所の「伝」という字で名前を付けた若者たちとよくここに集まった。葉恭綽、張善資、張大千、梅蘭芳などの知名人がこの庭園を訪ねたこともある。1942年に、蘇綸綿紗工場のオーナー厳慶祥氏がこの庭園を買い取り、工場の事務所として使った。
1949年の新中国成立後、厳氏は鶴園を国に献じて、市の政治協会会議の事務所となった。1966年以降庭園の中の額や対の句の多くが破壊をこうむり、印刷工場、物資局、自動車部品工場として使われたこともある。1978年に再び政治協商会議の事務所として使われるようになった。1980年に国が10万元を出資し、全面的な修復工事を行った。
鶴園の総面積は3134平方㍍で、こじんまりとして静かなところである。東の住宅と西の庭園が並列するようになっており、住宅は三つの中庭のある庭園からなる。池が庭園の真中にあり、水面にかかった小さな橋はきれいで、竹、石、花、木が池の周りを囲むようで、右のあすまやと左の舘が池を隔てて向かい合っている。北側のメインホールである「携鶴草堂」は構造が精巧で、前の長廊の東西の門の上部に龐蘅裳が題した「岩扉」「松径」というレンガ造りの額が掛けられている。この言葉は唐の詩人孟浩然の『夜帰鹿門山歌』の「忽至龐公栖隠処、岩扉松径長寂寥」という詩句からとったものである。堂の前には「掌雲峰」と書いてある石が置いており、その形にちなんでこういう名がつけられた。池の南側に「枕流漱石」という庁の額があり、メインホールと池を隔てて向かい合っている。「听楓山舘」はまた「鶴巣」とも称され、庭園の北側の青竹の中に隠れている。
「チャイナネット」2002年2月25日