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蘇州の古典庭園の美しさ(9)藕園
蘇州市城東小新橋巷通り7号に位置している。藕園の東側の跡はもともと清の雍正の頃に保寧知府の陸錦という人が築造した「渉園」であり、「小郁林」とも称された。その後崇明の祝という姓の人の別荘となった。光緒の頃の初期、湖洲の沈秉成という人が呉中に居をかまえることになり、渉園の跡を買い取って、著名な画家の賀芸らを招いて設計に当たらせ、邸宅を築造した。夫妻ともここに隠居したため「藕園」(藕は偶と発音が同じ)と名づけた。当時の呉中の名士潘祖蔭、李鴻裔、呉雲、鄭文焯らがよく藕園に集まり、宴を催したり、詩を吟じたり、骨董を鑑賞したりした。光緒21年(1895年)に沈秉成が亡くなった後、庭園は民家に変わった。1932年に楊蔭楡がここで二楽女子学社を創設した。1939年に歴史学者の金穆が家族を連れて東花園に居をかまえた。そして「補読旧書楼」で「史記地名考」を書き上げた。1941年に劉国鈞が藕園を買い取り、修繕を行ったが完工するに至らなかった。1958年に振亜絹織物工場が従業員の保養所、寮、倉庫、保育園として使った。1961年に蘇州市園林管理処の管理下におかれることになり、修復工事のあと、1965年に東花園が一般公開された。1979年に再建され、1990年に西花園、住宅が修繕され、1994年に全面的に一般公開された。

藕園は三方が小川に臨み、一方が通りに沿い、庭園の総面積は8000平方メートルである。庭園の枠組みは独特なもので、家屋が真中にあり、庭園は東花園と西花園に分かれ、庭園と家屋の間は重楼によって結ばれている。

東花園は「渉園」の跡で、山を主とし、池を補とし、あずまや・楼閣が山や池を囲むように築造され、庭園の主体的建築物は何軒かの楼閣である。それらは「城曲草堂」と称され、庭園の主人が宴を催す場所であった。楼閣の西側は「樨廊」で儲香館、藤花舫、無俗韻軒、枕波双隠亭などの名所とつながっている。あずまやには沈秉成の後妻の厳永華が書いた「藕園に佳偶が住み、城曲に詩城を築く」という対の句がある。楼閣の東側の南には「双照楼」があり、その「筠廊」は「還硯斎」、望月亭、吾愛亭、聴櫓楼などにつながっている。楼閣の前には、石の地面が広がり、黄石の築山があり、「邃谷」という山の小道がある。東側には主峰がそびえ立ち、絶壁が池に臨み、樹木が生い茂り、山林の自然のままの趣に富んでいる。西側の二つ目の山は低くてなだらかで、主峰とコントラストをなすものである。劉敦楨の考証によると、「この山の絶壁、小道、峡谷、築山はいずれも本物そっくりで、……黄石は自然に裂けた文様のようで、明の時代の嘉靖の頃の張南陽がつくった上海の豫園の黄石の築山と似ているため、渉園の遺跡であるかもしれない」。築山の東側には受月池があり、池の南側には「山水間」という構水閣があり、明の時代の良質の木材で作られた落地罩という門は幅は約4メートル、高さが約3.5メートルで、彫られた松・竹・梅の「歳寒三友」は精緻で美しい。

西花園は書斎「織簾老屋」を中心とし、前庭と裏庭に分かれている。前庭には湖の石と築山があり、裏庭には湖の石の花壇があり、北側には蔵書楼がある。

「チャイナネット」2002年3月13日

 

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