峨嵋山の四大奇観の一、日の出になると山河が火のように真赤に染まる。
「日の出になると山河が火のように真赤に染まる」という表現は、唐の詩人の白居易(日本では白楽天といわれている)の「憶江南」という詞の中の「日の出になると川の花が火のように真赤に染まる」という句から来たものであり、「花」の字が「山」の字になったわけだが、やはり真っ赤なものであり、非常に生命力がある。峨眉山の日の出の壮観さにとって「画竜点睛」のようである。
高い山の上に立って日の出を見れば、延々と延びる山河が至る所に見え、奇とするに足りない。しかし、山に登って日の出を見ることは、全く違う。峨眉山で日の出を見ることは、3000メートル以上のことであり、視点が高くなり、高いところに立って遠くを眺めるので、更に広々として壮観であり、峨眉山は四川盆地の西部に高くそびえ立っており、数百平方キロもある「豊かな資源に恵まれる平原」を見下ろし、これは東中国海で日の出を見ることとはまた別の風情があり、音をたてて押し寄せる海の波の中から赤い朝日が昇り、たなびく雲がそっと朝日を持ち上げるようになっている。峨眉山は夜に雨が多く、しばしば雨が晴れる境は朝となり、霧の中の水晶のような氷と水しずくは、日射しの中で豊富多彩な色を余すところなく見せることになろう。
峨眉山に立って日の出を見れば、視野が広がり、心をきれいに洗い流し、激情を燃え上がらせるだけでなく、人と大自然の関係をさらに密接なものにする。
峨眉山の日の出を観賞することにより、天下一の峨眉山をさらによく知ることになり、「物産の豊かな地」である四川省をさらに深く知り、8000万の巴蜀の地の人びとのことを知ることができるようになる。
金頂の日の出は、寺の鐘の音と同時にすすむ。空がほのぼのと明け、東方の青い空が、地平線に近づくところにまっすぐな銀色の光が射し、天と地を分けるようにして、ゆっくりと上から下へ広がっていく。突然、天地のすきまからコーヒー色の光の帯が昇る。この光の帯はだんだん深い色のものから浅い色のものとなり、厳かで重々しい色調から更に明快なものになり、夜明けの赤色から金色に変わり、溶かしたような金の液体がゆっくりと流れるようになっている。この瞬間、いくつかの光の束がきらめく鋭い刀のようにこの紫がかった青色の大空を切り裂く。この時になると、オレンジ色の雲、あかね色の雲は、きらきらと光る金色のレースをつけ、互いに交錯するように重なり、一つ一つの光の束を横に切り裂き、高い空に向かって絶えず伸びていく。真紅の太陽が幾重もの暗い紫色の薄い布の中に覆われているようである。突然、この紫色のベールを軽くはらいのけ始め、赤ら顔を露出するようである。この赤い朝日と銀色の月光は、異なったものであるが同じ原理のような妙趣があり、そのやさしさを秘めた姿を目にして、本当にさわやかな気持ちになる。この時の朝日はその活力によって、絶えず1層1層と雲を貫いて、一回また一回とジャンプを続け、ゆっくりと地平線の上にのぼってくるのであり、紫色の雲、赤い雲、黄色の雲を遥か遠くの空の果てまで押しのけ、巧みにさまざまな色どりの「山の形」に積み重ねていくようである。これら「山々」のふもとには、黄色の天の川があるようなものが、しずかに流れているようであり、朝日はこの天の川の中を照らし、上へ浮かび、のんびりとこの天の川の水面に浮かんできて、突然跳ねるように、天の川の金の液を帯び、湿り気がついたまま高い空に向ってのぼり、だ円形の、赤くてつやつやした笑顔を現すようだ。それからまた急速に高くのぼり、すみやかに真ん丸くなり、そしてすみやかに笑顔を収斂し、まぶしい光を放射し、目がちらちらするようである。さまざまな山は金色1色のようである。このときになると、空いっぱいの色彩のある雲、真紅の朝日、白い雪に覆われた山、サンゴ色の「峨眉山の頂上」、広大で長々と続く雲海は、非常に雄壮で美しい天然の絵巻のようである。
「チャイナネット」2003年3月28日