曲阜は、中国北方の山東省西南部に位置する。偉大な思想家で、教育家であった孔子は紀元前551年、ここに生まれた。曲阜三孔とはつまり、孔子を祭った寺院の「孔廟」、孔子の直系子孫が住んだ邸宅「孔府」、孔子とその末裔の墓所である「孔林」の三つを合わせた総称である。曲阜三孔は1994年、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。
孔廟は、曲阜城(町)の中央に位置する。松やコノテガシワにはさまれた512メートルの「神道」を通りぬけると、曲阜城の南門である「仰聖門」につく。これは、明の万暦22年(1594年)に建てられた「双門瓮城」(城門の前につくられた防御用の小城)で、城門の上部には「万仞宮壁」の四文字が刻まれている。孔子のすぐれた学識に対し、尊敬と敬慕の念を表したものだ。この門はかつて、平時は閉ざされたままだった。皇帝自らの来臨か、大臣が使わされたときだけ、開放されたのだという。
孔廟のレイ星門の両側にはそれぞれ、金の明昌2年(1191年)に立てられた「下馬碑」がある。封建時代にこの道を通る文官・武官が馬やカゴから降りたところだ
孔廟の歴史は、孔子逝去の翌年(魯の哀公17年、紀元前478年)までさかのぼる。魯国の哀公は、部屋がわずか三つしかなかった孔子の住居を「寿堂」として祭る命をくだし、孔子が生前使っていた衣服や冠、琴、車、書物などを集めて、後世の人々のために参観できるようにした。その後、寿堂は増改築が繰り返されて、明の弘治16年(1503年)、現在の規模となった。
約2500年もの歴史をほこる孔廟は、無数の戦火と動乱の時期を経過してきた。古くは、秦の始皇帝の「焚書坑儒」(学者の政治批判を禁ずるために、書物を焼き払い、儒生を生き埋めにして殺したこと)が、また1960年代には「文化大革命」が起こった。孔廟は何度も災難に見舞われたが、破壊されれば修理され、いつの時代も守られてきた。
孔廟の建物は、宮廷の建築様式をまねている。それは歴代の統治者たちが、孔子を「聖人」として崇めたからだ。そのため孔廟は、一般の建物とは異なる特権をもっていた。14万平方メートルの広大な敷地面積や、466もの部屋数などだ。それは北京の故宮、河北省承徳の避暑山荘とならぶ「中国三大古代建築群」と称されている。
孔子を祭る寺院として、その建築レベルはトップクラスに位置している。威風堂々とした風格は、正門からうかがえる。南から北へ立ちならぶ四つの石坊(鳥居形の門)は、それぞれ「金声玉振」坊、「顋星門」、「太和元気」坊、「至聖廟」坊と呼ばれ、いずれも天に向かって屹立する三間四柱からなる。孔廟の本殿である大成殿を仰ぐなら、七つの門を通りぬけ、六つの庭を進まなければならない。
本殿である大成殿は、孔子を供養したのをはじめ、その
祭典が行われた場所だ。「大成」の二文字は、中国の古典『孟子』から引用された。いわく「孔子の説の集大成」で、孔子の思想は「古来の聖賢(聖人と賢人)の大成を集めたものだ」と賛美しているのである。
大成殿は、北宋の天禧2年(1018年)の建造だ。雷火によって焼失したが、現存する建物は清の雍正年間(1723~36年)に再建されたものである。その高さ24・8メートル、幅45・78メートル、奥行き24・89メートル。建物の屋根をおおっているのは、旧時は皇室しか使えなかった黄金色の瑠璃瓦である。そこからは、孔子が皇帝と並ぶ最高の地位を与えられていたことがわかる。
大成殿の四方は、高さ5・98メートル、直径0・8一メートルの石柱28本に支えられている。明の弘治13年(1500年)、安徽省から来た職人の手により彫刻されたもので、中国古代建築の精華と称えられている。
建物の両側と後方にある18本の八角石柱には、浅刻や線刻などの手法を用いた72匹の竜がそれぞれ彫刻されている。竜の数は合わせて1296匹と伝えられるが、計算してみると、なるほど数が一致している。建物正面の石柱十本には、さらに彫りの深い、立体的な石刻手法が用いられている。いずれの柱にも、からみあいながら天へと昇る二匹の竜が彫りこまれている。竜のひげが宙に舞い、波涛は激しく、瑞雲がみるみる沸き立つ情景が、生き生きと表現されている。その精緻なまでの美しさは、北京・故宮の金鑾殿の大柱を上まわるほどだ。
言い伝えによれば、清の高宗・乾隆帝が孔廟で孔子の祭祀を行ったときのことだ。孔廟の管理者が、皇帝の来臨をいい口実として赤いシルクを石柱に巻いた。皇帝が「この柱の美しさは宮廷以上である」と激怒して、罰するのを恐れたためであるという。
明・清代の様式が取られた大成殿には、孔子と「四配」「十二哲」の塑像が祭られている。「四配」とは、孔子の弟子である復聖顔回、述聖子思、宗聖曽参、亜聖孟軻の四人。「十二哲」とは、孔子の弟子の閔損、冉雍、端木賜、仲由、卜商、有若、冉耕、宰予、冉求、言偃、孫師、それと直接の弟子ではないが孔子の影響を受けたとされる朱子学の開祖・朱熹の12人を指している。
中央の仏龕にある孔子の塑像は、帝王の像をすっかり模しているが、それは歴代皇帝の孔子に対する尊敬の念が、形となって表れたものだ。
大成殿の前には、幅45メートル、奥行き35メートルの大きな台座が設けられている。祭祀のときには、音楽の演奏や舞踊の披露が行われていた場所である。今では毎年9月28日の孔子生誕日に、ここで厳粛で盛大な祭祀活動が行われている。
孔廟の北東側に隣りあって建つ孔府は、孔子の直系子孫の官庁であり、住宅だった。孔子の子孫は中国ばかりか、世界でも最古の名門貴族だといえる。紀元前195年、漢の高祖・劉邦は、孔子第9代目の孔騰を「奉祀君」に封じた。その後、孔家は代々、皇帝から爵位を授けられたのである。
北宋の至和2年(1055年)、仁宗皇帝は孔子の第46代目に「衍聖公」という爵位を授けた。その爵位は、北宋から金、元、明、清の各時代まで変わらなかった。中華民国24年(1935年)になると国が共和制を実施したため、封建時代のなごりである爵号が廃止された。そのため、孔子の第77代目の孔徳成は「大成至聖先師奉祀官」に改称された。
孔府はなんども移転されたために、遺跡の考証は不可能とされている。現在の場所は、明の弘治16年(1503年)に、東へと移転したもの。
建物の配置は、前半分が官庁、後ろ半分が住宅で、官庁の大堂、二堂、三堂は、衍聖公が皇帝の勅旨を受けて大きな儀式を行ったほか、高位の官吏と接見したり、一族の事務処理を行ったりした場所だ。
大堂の前庭の中央には、めずらしい「垂花門」(彫刻や彩色画が施された、屋根のような覆いのついた門)がある。それは庭の中に独立しており、周囲には塀もない。昔、この門は平時は閉ざされたままであった。皇帝の勅旨を受けたり、盛大な儀式を行ったりしたときに、十三発の礼砲とともに開門されたのだという。そのため、人々からは「聖人の門」と称されている。
三堂の後方は、孔府の「内宅」、つまり歴代の衍聖公とその家族が暮らした場所だ。かつては厳重に警備されており、部外者の勝手な進入は許されなかった。それで、人々からは「最も神秘的な場所」と見られていた。
内宅の建物はそれぞれに美しい装飾が施されており、孔子の直系子孫たちの居心地のよい、平穏な暮らしを現している。しかし孔府にも少なからずの動乱が及んだため、ここに住んだ人たちは警戒心を怠らなかった。内宅に四階建ての建物があるが、下の階にはからくりを設け、上の階には食料を備蓄した。万が一の防備のためだ。
県城の北門を出てしばらくすると、孔子やその末裔の墓所・孔林へと続く「神道」がある。神道の全長は1266メートル。両側にコノテガシワが立ち並び、神道の中ほどには明代の石坊が建てられている。上部には「万古長春」の四文字が刻まれている。
孔林の敷地は208・4ヘクタール。2400年以上にわたる孔家歴代の墓が10万あまり。文字を刻んだ石碑が4千以上。石人、石馬などの石像芸術が千近くもあり、数万本もの古木が植えられている。
孔林には、孔子をはじめ、その第78代目の子孫まで埋葬されている。その悠久の歴史や多数にのぼる墓、完璧なまでの保存形態は、一族の墓所では世界にまたとないといわれる。それは中国墓所埋葬制度の沿革の研究をはじめ政治や経済、文化、風俗、芸術などの研究にとって、重要な価値がある。そして今でも、孔子の直系子孫が亡くなれば、孔子の墓のそばに埋葬できるのだという。
「人民中国」2004年11月4日