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現代化が進む少林寺 |
発信時間: 2008-02-18 | チャイナネット |
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カンフー小説を愛読する人は多い。小説に登場する武術の名手は練習に励み、世に並ぶ武功を上げるためには何らの代価も惜しまない。彼らは天下第一を奪い取るために、武術界に大きな災禍を引き起こすが、往々にしてこの時に出現し公平さを取り持つのが少林寺、あるいは少林寺カンフーを身につけた義侠心の強い人物が武術界のために害を取り払う。だが小説は結局、小説。現実の少林寺はどんな様子だろうか。 仏門の生活 毎朝4時。武僧たちがあちこちから次々に山門前へと集まり、ジョギングの準備をする。その後、閑静な場所を選んで、参禅し武術を練習する。文僧もこの時すでに大雄宝殿で早朝の授業を開始。読経の声が響きわたり、線香が立ちこめるなか、敬虔な気持ちでひざまずき、ぬかずいている。出家したばかりの少年僧は毎日午前、教典を読んだり、国語や数学、歴史、地理、英語を学んだりと、教養科目を学習しなければならない。授業方法も見慣れたものだ。小和尚たちは少林寺の側殿に座り、教科書を机いっぱいに並べ、声を出して英単語を読んでいた。 午後は自由時間。読経したり、禅を修めたり、武術に励んだり、書物を読んだり、インターネットにアクセスしたり……。午後5時。すべての僧侶は大雄宝殿で夕方の授業を受けるが、仏様に1日の学習を報告しているかのようだ。1日また1日、1週間とこれを毎日繰り返す。単調な生活にみえても、僧侶たちの楽しみはむしろここにあるのだ。 僧侶はもう水桶を担うことによって武術を練習することはない。少林寺ではすでに水道を使用しているからだ。朝8時。門を開けて客を迎え、僧侶たちもそれぞれの仕事を始める。庭の掃除や食事づくりなどは雇い人が行っている。 僧侶たちには自分たちの歌がある。彼らの間で流行っている歌だという。普段の飲食では、素食に慣れているが、若い僧侶は間食をしてもよく、スナック菓子もいつも食べている。 少林寺のデジタル化 名にし負う少林寺。紅い壁に黒い瓦、青い松に青緑の柏、線香の淡い煙、耳もとにつきまとう読経の声……。少林寺の住職、釋永信大師の名刺には、同寺のホームページ(HP)アドレス、携帯電話番号も印刷されている。住職ばかりか、境内に貼られた武僧団の予備人材募集の広告にも電子メールアドレスが書かれていた。現在の少林寺の僧侶にとって、携帯やコンピューター、また運転免許証さえももう目新しいものではない。現代技術はこの深山にある古刹でもすでに普及しているのだ。
「写真説明」少林寺インターネットセンター。僧侶は普段、ここでネットにアクセスして必要な資料を検索できる。 1996年、国内で初の寺院関連のHPを少林寺に開設。www.shaolin.org.cnは少林寺の公式サイトとなった。だが当時、インターネットを知る人は非常に少なかった。2004年7月、サイトで全世界に向け初めて門外不出の千年の秘方「行軍散」と「珍玉散」「観音膏」、この3種を公開。次いで『易筋経』や72の卓絶した技芸、点穴功など少林寺カンフーの妙味、修練方法についてサイトで全世界に公開したことで、少林寺サイトのアクセス数は10万件を突破。より驚かされたのは、普段からサイトを更新しているのが武僧だったことだ。 1998年、少林寺事業発展有限公司を設立。取扱品目は「少林素餅」と「少林禅茶」。国内29分野で100件の商標を登録したほか、一部企業に商標「少林」の使用を許可している。 少林寺のCEO 「写真説明」最高経営責任者(CEO)の釋永信大師
少林寺の発展について、釋永信大師には独自の確固とした理念がある。現代社会と近距離を保つことだ。大師個人はほぼ全ての現代的な通信機器、ブロードバンドにデジタルカメラ、携帯電話などを所有。年間およそ60日余りを海外で過ごし、世界各国の権威筋と接触している。大師はまた、僧侶たちに大学のMBAコースを学ばせる住職の1人だ。
「写真説明」少林寺武僧団の演技
1987年、釋永信氏は重い病で亡くなった行正住職から重任を引き継いで少林寺を管掌した。同時に少林寺武術隊を武僧団に改組。そして1989年以降、代表団を率いて日本、韓国、米国、ロシアなど60数カ国や香港特別行政区、台湾省を訪れるなど、少林文化の拡大をさらに進めたことで、全世界に「少林カンフーブーム」が沸き起こった。
◆少林寺の歴史 少林寺は悠久の歴史をもつ。北魏太和十九年(495)の建立。その32年後、インドの名僧である菩提達磨が禅宗を伝えたとされる。その後、寺院は徐々に拡大し、僧侶や信徒も増え続け、少林寺の名は広まっていく。達磨は中国仏教禅宗の始祖、少林寺は禅宗の祖庭とされる。禅宗の修行法は「壁を観る」、壁に向かって静座すること。長い時間あぐらをかいて座るため、極めて疲れやすいが、僧侶はだるさと眠気を除こうと鍛錬に励む。こうしたことから、少林寺拳法は達磨が創造したと伝えられている。少林寺は唐代初期に内外にその名を高めた。惠場や曇宗、志堅など13人の和尚は李世民が王世充を討伐する戦いで、戦を助け包囲を解くなど、汗馬の労を立てた。唐の太祖となった李世民は後、曇宗和尚を大将軍に封じるとともに、少林寺の和尚に僧兵を育て、殺生戒を犯し、酒肉を取ることを特別に許した。境内にこの間の歴史が記された「唐太祖賜少林寺主教碑」がある。朝廷の大きな支援があったため、少林寺は内外にその名を馳せる大規模な仏教寺院へと発展し、「天下第一の名刹」と言われるまでになった。少林寺の武術は宋代に大きな発展をとげ、僧侶は2000人余りに達した。明朝時代、少林寺は最盛期を迎えたが、清代から零落していく。 「チャイナネット」2008年2月18日 |
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