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屈原を記念する祭日
発信時間: 2008-06-04 | チャイナネット

上述の端午節の起源にかんする説明は、もちろん一定の道理があるけれども、端午を屈原を記念する日とする見方のほうが広く伝わっていて、民間に定着したといってもいい。

二千三百年前の戦国時代に、南方の楚の国に、ひとりの愛国の詩人屈原がいた。屈原は紀元前三四〇年頃に生まれたが、それは中国の社会が大きな変化を起こしている時代だった。楚国の貴族集団の腐敗ぶりに対して、屈原は内政の改革、法制の設立、賢士重用の主張をし、外交面では「連斉抗秦」をとなえた。しかし、これらの革新的な主張は上官大夫・靳尚と楚の懐王の寵姫南后・鄭袖を代表とする腐敗勢力の反対にあい、楚の懐王はざん言を信じて屈原を追放してしまった。

五十余歳の屈原は限りない悲しみを胸に抱き、楚の国の郢都を離れて、夏浦、陵陽一帯をさまよっていたが、愛国の情熱にかきたてられて、『離騒』『九歌』『九章』などすぐれた憂国、憂民の詩歌をつくりだした。これらの真心のこもった、格調のたかい詩は、中国と世界の文壇に永遠に光を放っている。紀元前二七八年に、秦の軍隊は郢都を攻略し、楚の国の滅亡は旦夕に迫った。六十二歳の屈原は恨みを呑んで湖南省長沙附近の汨羅河に、石を抱いて身を投じ、国に殉じた。

屈原が捜し求めた楚の国を栄えさせる道と、理想のためにわが身を犠牲した崇高な精神は、人々の尊敬をえた。屈原が川に身を投じた知らせを耳にした人々は、四方八方から馳せさんじて、船を出してその屍体を捜したが、水にそって流れ去ったのか、どうしても見つからなかった。「楚人これを哀し、此の日の至るごとに、竹筒に米を貯え、水に投じて祭祀す」(『続斉諧記』)。言い伝えによると、これが端午に竜船を漕ぎ、ちまきを食べる由来という。端午節に門前に艾の葉や菖蒲を挿すのも、屈原の魂寄せのためであるという。

端午節と屈原の結びつきは、人々がこの愛国の詩人をしたっていることを意味している。1953年、世界平和理事会は世界の人々に四名の世界有名文化人を記念するように呼びかけたが、屈原の名前も、ニコラウス・コペルニクス(ポーランドの天文学者)、フランソワ・ラブレー(フランスの物語作家)、ホセ・マルティ(キューバの愛国詩人)と並列してあげられている。屈原は永遠に人々の心の中に生きており、毎年の端午節の民間の風習の中に、永遠の命を保っている。

 

「チャイナネット」2008年6月4日

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