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「長安街」歴史散策  清代への時間旅行
発信時間: 2009-06-25 | チャイナネット

 

T字型だった天安門広場

さて、さらに西に向かうと、期待の天安門だ。この門は、明代から清初にかけて承天門と呼ばれたが、順治年間(1644〜1661年)の修復後、天安門へと改称された。この門は普段はほとんど閉ざされている。皇帝専用の門で、皇室で特別な行事が行われるさいにしか開かれないのだ。門の真南には大清門と呼ばれる門があり、2つの門の間を繋ぐのは、大理石でできた「御路」だ。

1950年ごろの長安左門(『北京旧城』より)


 

さて、天安門を挟んで長安左門と東西対称にあるのが長安右門。この左門と右門を東端と西端、大清門を南端として、天安門前の空間はTの字型に広がっている。その南の壁沿いには「千歩廊」と呼ばれる黄色い瓦と赤い柱の屋根つきの廊下。廊下の東西一帯は、戸部、礼部、吏部などの重要なお役所が軒を連ねた、いわば清朝の「霞ヶ関」だ。

さて次は長安右門を出て、さらに西へ。東三座門と同時に建てられた西の三座門をくぐると、ふたたび牌楼が登場。その「長安街」の文字を見上げ、さらに進む。

 

幻のツインタワー

西長安街は、東長安街と対称に走る通りで、東と同じく「長治久安」の意味を込めて命名された。間もなく現在の西単にさしかかる頃、道の南側、今の電報大楼の向かい側辺りに、夫婦のように並ぶ塔が見えてくる。この9層と7層の八角形の塔は、金の章宗の時代に創建された約800年の歴史をもつ名刹、大慶寿寺にあったもの。塔以外の建物は早くに失われたが、残った2つの塔は、「双塔寺」との愛称で親しまれた。

王軍氏の『北京再造』によれば、この双塔寺は、元の大都の建設のさい、これを避けて城郭を築くべしという世祖フビライの詔に従ったため、保護された。本書には、著名な建築学者、梁思成の魅力的なプランが載っている。それは、塔を道路の中央に円形広場を残す形で保存し、道路の景観を豊かにしてはどうか、というもの。もっともこれは、当時の複雑な事情から実現せず、1954年、双塔寺は取り壊された。今回は、幸い残っている写真やスケッチをもとに、その麗姿を想像してみたい。

 

都市に眠る記憶

とうとう西の終点、西単へ。ここには「慶雲」と記された牌楼、俗称「西単牌楼」が建っている。その先は、ふたたび胡同の広がる一帯だ。

このように、かつての長安街は、東西の牌楼に区切られ、編みかけの編み棒のように様々な門をくぐっていた。通りを変化に富んだものとしていた建築物たちのその後の命運については、王軍氏の『北京再造』に詳しい。

過去への旅で浮かび上がってくる、清代の長安街の豊かな表情。それは、北京という街の記憶の、貴重な1ページといえるだろう。(文=多田麻美)

 

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