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臘八節の文化
発信時間: 2010-01-22 | チャイナネット

臘八節の由来

 

 

 

陰暦十二月を臘月といい、臘月の八日を臘日という。

臘は合の意味で、新旧がつなぎあわされる時として、天地、神霊、祖先をいっしょにした「合祭」、古代に「臘祭」と称された行事をする。また、臘は猟の意味で、子孫たちが野獣を捕って、うやうやしく先祖に供えた、原始社会の祖先崇拝の遺風であるという説もある。

古代の臘日について、梁宗懍の『荊楚歳時記』にこのような記事がある。「十二月八日を臘日といい、『臘鼓を鳴らせば、春草生ず』という諺あり。村人はみな細い腰鼓を打ち、武者の帽子をつけ、金剛力士に化装して疫を払う」。古人は臘日(またはその前日)に、金剛または力士などの神霊に化装し、踊りながら臘鼓を打ち鳴らせば、災いを除き邪を払えると思っていた。

 

   

臘八節の習俗

 

仏教の祭日としての臘八節

臘八節は仏教の祭日である。古い中国の漢民族地域では、この日を釈迦牟尼が成道した日と言い伝えている。この日、仏寺では読経し、「臘八粥」をつくって仏に供えた。「臘八粥」については、一つ面白い話がある。仏祖釈迦牟尼が成仏するまえ、かつてインド各地の有名な山や川を歴遊して、長老や異人を訪ね、人生の真諦を捜し求めた。北インドのマガダ国(今のインド・ビハール州南部一帯)の尼連禅河の付近にさしかかった時、釈迦は酷熱にたえかね、疲れと飢えで、ついに辺ぴな荒野に行き倒れになってしまった。ちょうどこの時、ひとりの羊飼いの女がさしかかり、急いで自分の弁当をとりだしと、甘味な泉水を汲んできて、火で煮てからひと口ひと口釈迦に食べさせた。かの女の弁当は、この数日間のきび、もち米などの残飯をまぜあわせたおじやで、その中に山から摘んできたなつめ、栗、クルミなどが入れてあった。この昼食は、何日間も飢餓状態にあった釈迦にとっては、山海の珍味にひとしく、彼は元気をとり戻し、精神もふるいたった。食事のあと河で沐浴し、菩提樹の下に静座して黙想していたが、十二月八日についに成仏することができた。それからというもの、毎年臘月八日には群僧が一堂に会して読経し、法をとき、もち米の粥を食べてこの日を記念した。

 

 

臘八粥

わが国の僧侶が臘八粥を食べるようになったのは、宋の時代にはじまり、一千余年の歴史があり、『天中記』にこう記されてある。「宋の時代の東京の諸大寺では、十二月八日に七宝五味粥を送り、臘八粥と称す。朝廷、官府、寺院はみな大量の臘八粥をつくったばかりでなく、民間も争ってこれに習い、広く伝わった」。清の時代になると、臘八粥を食べる風習はより盛んになり、宮廷では皇帝、皇后、皇太子などが、みな文武大臣たちや侍従、宮女などに臘八粥を賜り、各大寺に米、果物などを布施して、僧侶の食に供した。寺廟の僧侶も盛大な読経法要を行って、釈迦成道を記念した。民間では、臘八の日に臘八粥をつくり、豊作を祝った。

清代の富察敦崇の『燕京歳時記』には、この臘八粥にかんする詳細な記述がある。「臘八粥とは、きび、白米、もち米、粟、ひしの実、栗、小豆、皮をむいたナツメなどを用い、水を入れて煮る。この他に紅染めの桃の種子、杏仁、スイカの種子、落花生、はしばみの実、松の実、及び白砂糖、赤砂糖、乾しぶどうなどを用いて色をつける」。「毎年臘七日になると、果皮をむき、器物を洗いすすぎ、終夜仕度をする。夜明けになると粥が煮えあがる。これを祖先に祀り、仏に供える他に、親類友人にもわかち贈る。贈るのには昼をすぎてはならない」。品種は「多くを以って佳とし」「巧みをこらし、奇を争い、これを古人に比べるならば、過ぎるにも及ばざるはなし」で、これから推しても、清の時代の民間の臘八説の様相がうかがえる。この風習は今日まで伝わってきているが、すでに迷信の色彩はとり除かれ、人々はただ祭日の風習として臘八粥を食べるにすぎない。

北京一帯の住民は、臘八節の前後に「臘八大蒜」をよく漬ける。きれいに洗ったニンニクの房を、密閉した酢の瓶の中に漬け、春節になって瓶をあけて食べる。酢の中にニンニクの味がうつり、ニンニクは酢っぱい香りを放ち、独特な味がして、水ギョーザを食べる時の香の物になる。

 

 

 

「チャイナネット」2010年1月22日