文化>
japanese.china.org.cn |22. 12. 2021

姑蘇城外寒山寺

タグ: 寒山寺

 年の瀬に馳せる心のふるさとぞ

 寒山寺にて聴く夜半の鐘

 

日本で広く親しまれている漢詩はといえば、「月落ち烏啼いて」の名句で知られる中唐の詩人・張継の七言絶句『楓橋夜泊』であろう。

 

 月落烏啼霜満天, 月落ち 烏啼いて 霜天に満つ

 江楓漁火対愁眠。 江楓の漁火 愁眠に対す

 姑蘇城外寒山寺, 姑蘇城外 寒山寺

 夜半鐘声到客船。 夜半の鐘声 客船に到る

 

旅愁も手伝ってか、船の中でうつらうつらしているうちに、月は西に傾き、烏が鳴いて、霜の気が空いっぱいに満ち、暁かと錯覚するような寒さが体に染み込んで、ふと目を覚ます。船窓から見やれば、紅葉した川辺の楓、明々と輝く漁火が、浅い眠りの中、目の前に鮮やかに浮かぶ。折しも、船まで聞こえてくる蘇州城外の寒山寺の鐘の音。なんとこれは夜半を告げる鐘ではないか。

 

寒山寺(cnsphoto)

作者の張継は襄州(湖北省襄陽県)の人。生年と没年は詳らかではないが、およそ紀元750年頃の人と推定される。玄宗皇帝の天宝12(753)年の進士。代宗の大暦年間(766~779年)に大理司直、塩鉄判官などを歴任したという説がある。


さて、この詩を書いた背景であるが、これにはいろんな説がある。


一つは官吏登用試験失敗説。張継は若い時から秀才の誉れがあり、年頃で美人の王暁薇と恋仲に陥るが、大金持ちの両親は、張青年の家庭が裕福でないことを理由に、首を縦に振らない。娘がどうしてもと言うので、両親も仕方なく条件付きで折れる。条件とは張継が官吏登用試験で進士に及第すること。それがかなえば、嫁いでもよいということになった。張継の実力からいえば、及第には問題はないのだが、首都・長安に赴いて試験を受けた結果、見事に落第。これでは、親と恋人に会わす顔がなく、悩み抜いた挙句、襄州へは直接帰らず、蘇州へと向かった。気分を紛らわすため、蘇州に着いた翌日、船を雇い、寒山寺の近くの楓橋のたもとに停泊し、例の名詩をものしたと言い伝えられている。その後、張継は長安に引き返し、進士の試験に及第するが、恋人は待ちきれず、すでに人妻になっていた。張継は恋には失敗したが、人口に膾炙する傑作を後世に残したのがこの『楓橋夜泊』。


いま一つは、「安史の乱」避難説。歴史上、最盛期を迎えた唐代もやがて社会の矛盾が激化し、楊貴妃との愛に溺れた玄宗の下で次第に危機が顕在化した。東北の節度使・安禄山は史思明と組んで天宝14年、15万の大軍を率いて、楊貴妃の一族で財政を握る権臣・楊国忠討伐を名目に進撃を開始、太平の世に慣れた官軍はたちまち瓦解し、洛陽に続いて長安が占領され、玄宗皇帝は慌てて四川に逃れる。いわゆる「安史の乱」である。当時、江南一帯は比較的安定していたので、多くの文士は江南の水郷——江蘇、浙江に避難したが、その中に張継もいたといわれる。さすらいの旅を続け、憂いに沈む張継が蘇州で書いたのがこの『楓橋夜泊』であるとか。


ところで、中国でも日本でもこの詩ほど異説のある詩も珍しい。


まず「月落ち烏啼いて」だが、「烏は夜鳴かない」「いや、鳴く」と水掛け論になっていたが、どうやら「鳴く」でケリがついたらしい。また、「烏啼」については、「烏啼山」という山があって、「月が烏啼山に沈む」と解釈する向きがあり、長い間日本で「月は烏啼に落ち」とする説がくすぶっていたが、蘇州にはもともと「烏啼山」という山はない。詩が有名になってから付けられたものだろう。


2句目の「江楓漁火」は、「江村漁火」という説もあるが、どちらが正しいか。これについても諸説紛々。清の学者・兪樾の考証によれば、「江村」が正しいとされている。日本古来の謡曲『三井寺』『道成寺』などでも「江村」と引用されており、これはあるいは古いテキストによるものかもしれないが、今は「江楓」で通っている。


「夜半の鐘声」についても、宋の有名な文学者・欧陽修は寺の鐘は夜中に撞かないものだと力説。しかし、これは間違いで、唐の時代から、寺が夜に鐘を撞いていた。その証拠に、白楽天は「新秋松影下、半夜鐘声後」と歌っており、ほかにも多くの唐の詩人が夜中に寺が鐘を撞く詩句を残している。


このように、張継の詩作『楓橋夜泊』によって、寒山寺が天下にその名を馳せるようになり、また寒山寺によって、この詩が広く知られるようになった。

1  2  >