年齢より若く見えることは、どこの国でも喜ばれることであろう。ただ、中国人から見れば、日本人が年齢に拘りすぎるような感じがする。留学していた時に、施設の職員を「おばさん」と呼んだら、「少なくともお姉さんでしょう」などと言われたことがある。五十台の婦人を「お姉さん」と呼ぶことには、なかなか勇気が必要だった。中国では、「お姉さん」は、自分と同じ世代の年上の人を呼ぶときにしか使えないのである。両親と同世代の人を、「阿姨(アーイー)」「叔叔(スウスウ)」と呼ばないで、「お姉さん」「お兄さん」と呼んだら、この上ない失礼に当たる。だって、その人たちを自分と同世代の人として扱ったことになるからである。
その後の勉強で、更に面白いことを発見した。『無名草子』の作者と擬せられている俊成卿女は、実は藤原俊成の娘ではなく、その孫娘であることにびっくりした。虚構の物語の世界でも、『源氏物語』では、頭中将の娘はそのお爺さんの子として入内しているし、紫の上は養女明石姫君の子匂宮を自分の子のように愛育し、匂宮もお婆さんの紫の上について、父帝母后よりも、「母をまさりて思ひきこゆ」ると言っている。また『落窪物語』では、自分の育った息子の次男が、その兄より昇進できるために、孫ではなく自分の五郎だなどと言いなしたりしている。このような世代を無視にすることは、中国では考えられないのである。
昔の中国では、家譜にそれぞれの世代が用いる文字が七言絶句などのような形で定められていた。したがって、その氏族の人であれば、自分がどういう呼称を用いて相手を呼ぶべきなのか、その文字を見れば分かるはずである。韓国では、今でもそのような伝統が守られているが、現代中国になってからは、そのような伝統がだいぶ廃れた。それにしても、乃木希典のように自分の名前の文字を子どもに与える、つまり、親子の名前に同じ文字を使うことをしない。それは親子の世代を無視し、親に対してこの上ない不孝な行為になるからである。
要するに、「兄」「姉」とかの呼称は年齢に関係するが、「姨」「叔」以上になれば、世代に関係するもので年齢に関係はないのである。私自身も幼少の時から三十台の人に「姑姑(グーグー)」(叔母)と呼ばれた。子どもも生まれたときからすでに「舅舅(ジュージュー)」(叔父)「爺爺(イェーイェー)」になっていた。そのように呼ぶのが「礼」である。
ところが、日本では、相手を尊敬して呼ぶつもりの「小母さん」「お爺さん」が相手を年寄り扱いするマイナスな意味合いをもってしまう。東京の満員電車でこのようなことを経験した。ある年配の男性が若い男性の背中を押してやっと電車に乗り込んだ。押された若い男性が、「くそ爺」と嫌味を言う。それを聞いた年配の男性は何と「爺じゃない」などと反論。それを受けて、若い男はさらに「どうせ、大正生まれだろう」と攻める。こうまで言われて、年配の男性はまるで急所を突かれたように、「そ、そんなじゃない」と一所懸命。そのかわり、若い男は「なら、明治か」と追い詰める。「くそ爺」という表現に、不敬な部分は「くそ」にあるはずなのに、このように発展してしまったのだ。それから、このエピソードを中国人に話すと、皆が笑ってしまうのに、日本人は笑わない。日本人にとって、若いことが唯一の価値判断の基準であるように思えた。
言語感覚からいうと、中国語の「姑姑(グーグー)」(父方の叔母)「叔叔(スウスウ)」(父方の叔父)「阿姨(アーイー)」(母方の叔母)「舅舅(ジュージュー)」(母方の叔父)「爺爺(イェーイェー)」(父方の爺)「奶奶(ナイナイ)」(父方の婆)「外公(ワイゴン)」(母方の爺)「外婆(ワイボ)」(母方の婆)などの発音はかなり可愛らしい。そのかわり、日本の「ば」「ばあ」「じ」「じい」の発音はいかにも重い。日本語の勉強を始めた親戚の子から日本語のメールで「叔母さん」と呼ばれたとき、やはりドキッとしたのである。
ただ、このごろ、中国でも世代と関係なく「お姉さん」と呼ばれて喜ぶ若い女性が出てきている。この呼称から見える年齢についての感覚も、或いはただ日本が先進国で、中国もあと数十年経てば「お姉さん」がはやる時代になるかもしれない。
(作者は北京日本学研究センターの張龍妹教授)
「チャイナネット」