1933年の初夏、上海で撮影された魯迅(写真左)と内山完造氏との記念写真。
1917年、内山完造氏は中国の上海に渡り、内山書店を開いた。この書店は、その当時、上海で活動していた左翼作家の書籍の主要な販売店であり、中日の進歩的文化人が集まるサロンのような存在でもあった。内山書店では来客がすぐ手に取れるように書籍を陳列しており、読者は読みたい本を自由に取って読むことができたので、中国人の読者はこの店をよく利用していた。
1927年10月5日、魯迅が内山書店を訪れたことがきっかけとなり、内山氏と魯迅は親交を深めて行く。内山氏は、当局にマークされていた魯迅を四度も匿ったことがあり、郭沫若、陶行知などの左翼文化人も官憲の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せている。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になる。魯迅は「三閑書店」の名義で多くの本を出版していたが、それらの本は内山書店が代理で販売していた。1936年に魯迅が逝去すると、内山氏は「魯迅文学賞」を発起し、《魯迅全集》の編集顧問にも選ばれた。
1935年、内山完造氏の弟の内山嘉吉氏が東京で内山書店を開店し、魯迅を中心とする書籍の販売を始めた。その入り口に掲げられた「内山書店」の扁額は、中国の有名な文学者、郭沫若氏が書いたものである。現在はその息子さんが書店を引き継いでいるが、今も扱う書籍の半分を中国書籍が占め、特に魯迅の著作は充実している。魯迅と内山完造氏が結んだ中日間の友情は、このような形で今も受け継がれている。
1945年に戦争が終わり、内山氏は日本に帰国したが、その後も日中友好に尽力し、日中友好協会の創立メンバーの一人になっている。1949年の新中国建国後、内山氏は二度中国を訪問し、1959年に訪問先の北京で急死した。内山氏の遺言に従い、その遺体は上海の万国墓地に埋葬されている。これは、中国に対する内山氏の思い入れの深さの表れである。
1981年9月28日、「内山書店旧跡」の石碑の除幕式が上海で行われた。
内山完造氏とその書店を記念するため、上海市民は1981年9月に内山書店の跡地に記念碑を建てた。その碑には「この店は日本の友好人士 内山完造が設立した店である。魯迅先生はいつもこの店で本を買い、客と会い、更にはここに避難したこともある。これを特に石に刻み、記念とする」と、刻まれている。
1998年12月5日、東京の内山書店で二週間にわたって開催された第1回中国人日本語著作展が閉幕した。写真は、この著作展に訪れた参観者に展示図書の目録を紹介する著作展の主催者、『日本僑報』の段耀中編集長(写真右)。
「チャイナネット」2007年3月