日本語科の学生として、わたしたちは授業以外、日本のドラマやアニメ、日本人の友達との交流などを通じて、日本文化と触れ合う機会があります。もちろん、これだけでは、日本に対する理解はまだまだ少なくて浅いですが、今日はとりあえず、今まで自分が見た日本についての感覚を述べてみたいと思います。
去年の九月、日本語科に入ったばかりのとき、日本からお茶とお花の先生がいらっしゃって、そのおかげで、お茶とお花を体験することができました。日本の伝統文化に接したのは初めてでした。きれいなお花を見て、おいしいお茶をいただいて、心が落ち着きました。まさに癒しの一時だったです。日本人は細かいことに繊細だということは聞いておりますが、たとえ一本のお花・一杯のお茶でも、大切、大切に扱う日本人先生方の姿を見て、わたしは始めて繊細だということを理解したような気がします。そして、お茶をいれ、お花を生けるプロセスを楽しみながら、出来上がったおいしいお茶を口にした瞬間、生け終わった美しいお花を見た瞬間、幸せを感じた自分は日本文化に対する真の意味での理解に一歩近づいたような気がしました。
その後、日本語科ということで、いろいろな交流活動に参加して、多くの日本の方と友達になりました。ある日、わたしは一人の友達にふるさとのお茶をプレゼントしました。その後、彼に会うたびに、お茶の味を褒めてくれて、「ありがとう」を何回も言ってくれました。日本人は同じことに対して、「ありがとう」を繰り返して言う習慣に感慨深かったのです。人に対する感謝の気持ちを常に持っていれば、「ありがとう」というのは自然に口から出てくる言葉だなと考えさせられました。それで、日本人は感謝する気持ちを大事にする民族だと分りました。そして、気持ちを表す回数を重ねることによって、その気持ちも深く感じられるようになるような気がします。つまり、何かをしてくれた人に、自分の感謝する気持ちを伝えたいという心そのものが繊細だということをよく示しているのではないかとわたしは思っています。
今、日本語を習ってから、もう一年半になりました。勉強すればするほど、日本語自体も繊細だということを強く感じてきました。例えば、皆さんもご存知のように、日本語の中に、複雑な敬語の体系があります。そして、その敬語の中、尊敬語と謙譲語というような大きな分類もあります。さらに、尊敬語と謙譲語それぞれの中に、尊敬または謙譲の程度の差もあるということです。今のわたしにとっては、下手なのでいつも間違えてしまって、本当に悩むところです。それなのに、日本人はまるで生まれつきのセンスがあるかのように、すぐに適切な表現を選んで、自分の気持ちがそれなりに表れることは本当にうらやましいです。繊細な日本語を使いこなせる日本人も感情が繊細だというように感じています。
こうした一連の感覚は繊細というキーワードで展開されていたのです。文化からも、習慣からも、言葉からも、いろいろな面で繊細だということを感じることができます。文化の繊細さは日本語の繊細さで表すことができる一方で、日本語の繊細さがあるからこそ、その文化への影響もひそかに続いているのではないかと、ときどきそう思っています。
わたしから見た日本はこのように一つ一つの独立した現象ではなくて、お互いに緊密に繋ぎあう日本です。「繊細」を中心とする日本です。
(筆者は北京大学日本語科二年生 劉蘇曼さん)
「チャイナネット」