マレーシア半島にあるマラッカは、地理的に南洋及びインド洋の要地であり、当時の西洋東部における水陸交通の要衝で、東南アジアの商業中心でもあった。現地の民間鄭和研究者である湯在民氏の話によると、マラッカは鄭和が遠洋航海に出発した当時、まだ建国したばかりで、その全てが発展を待っている状態であった。鄭和船隊の到着後、この地に「官立工場」を建設すると、あっという間に貿易集散地となり、経済が急速に発展することになった。
湯在民氏の考証によると、鄭和船隊はインドネシアのスマトラに「官立工場」を建設し、中国のシルク、陶器がこの地で頻繁に取引された。アラビア半島及びペルシャ湾に面するイランのゲシュム島はアジア、ヨーロッパ、アフリカの中央に位置する海上の要地で、鄭和の西洋航路西部の貿易基地であった。東西貿易の中間基地として栄えたインドのカルカットは、鄭和の東西貿易のもう一つの本営であった。鄭和の遠洋航海の期間、これらの貿易基地は一大繁栄を誇っていた。
鄭和の遠洋航海により、中国と東南アジアの海上貿易の道が開かれ、東西交流を促したばかりではなく、東南アジア地域の繁栄、安定のために海の道を切り開いたのである。鄭和船隊は中国のシルク、陶器、その他の多くの精美な物品を満載し、東南アジア各国に輸送すると同時に、現地生産の香料も中国に輸入し、中国香料市場を開拓した。当時、中国に輸入された物品は百六十余種もあり、中でも胡椒の輸入量は最大であった。インドネシア・ジャワ島のパレンバンなどの地域も、この影響を受けて「東方香料群島へ向けての発展基地」に変化して行った。
内外の研究者は、鄭和の七回に及ぶ遠洋航海によって、中国と東南アジア各国との政治交流、経済交流を新たな段階へと突き進め、東南アジア地区の繁栄、安定に対して非常に重要な役割を果たしたと評価している。
「チャイナネット」2005年7月1日