鄭和は7度の航海の出航地にすべて江蘇省太倉の劉家港を選択しているが、後世の人の分析によると以下の5つの要因がある。
第一に、良港であったことである。劉家港は中国史上に名高い古港で、「海洋の喉元、江湖の門戸」と形容され、それ以前には「六国埠頭」、「天下第一埠頭」と称せられていた。
第二に、豊かな土地であったこと。水陸交通の便がよく、自然資源が豊富で、典型的な江南魚米の郷であった。
第三に、人材が多かったこと。東南沿海一帯は多くの航海経験がある操船技能者がおり、一群の優秀な「大船頭」を選択することができた。
第四に、商業貿易港であったこと。この地には商人が雲集し、商品が山積され、船隊の補給も容易であった。
第五に、都に近かったこと。太倉は南京から最も近い海港で、指呼の間にあり、朝廷との船隊の連絡に便利であった。
鄭和の船隊の7度の航海における総航行距離は16万海里に及び、その足跡はアジア、アフリカ30余の国と地域に上り、最も遠いところでは、東アフリカ、紅海にまで及んでおり、600年前に達成した人類海洋征服の奇跡である。鄭和船隊の7度にわたる遠洋航海により、西太平洋とインド洋の間に21ルートの遠洋航路を開拓している。中国と東アフリカの間に経常的な海上交通を確立しており、これらの航路はこれに続く欧州航海者の世界航路にも貢献している。
「チャイナネット」2005年7月1日