1405年7月11日、2万7000人以上の人たちを乗せた大船団が江蘇省太倉の劉家港から出航。1407年秋、鄭和はジャワなどの朝貢使節を伴い、貿易取引で入手した数十隻分もある諸外国の貴重な品々を持ち帰り、初航海を終えた。
1407年12月、鄭和は2回目の航海に出る。今回の航海ルートは初回とほぼ同じで、2年の歳月を費やした。
1409年夏、鄭和は3回目に船団を率いて国外へ向った。この航海は依然として東インド洋を中心とし、そのうえマレーシアのマラッカに倉庫をつくり、海上貿易の中継地とした。
1412年11月、明の成祖自身が4回目の航海の命令を下した。鄭和の船団はさらに西へ向い、東アフリカ沿岸部をも航海目的地に組み入れ、各国との交流・貿易をさらに拡大した。航海に要した期間はかなり長く、鄭和は1415年に帰国し、分遣船団が帰着したのはその1年後。
1417年5月、鄭和の船団は5回目の遠洋航海に出た。今回の航海の主な任務は帰国の途につく19カ国の使節を護送することで、鄭和の船団は東アフリカ海岸の最南端に到達した。
1421年7月、鄭和の船団は6回目の遠洋航海を行い、帰国の途につく16カ国の使節を護送した。鄭和の船団は東アフリカ海岸のケニアのモンパサ港、ソマリアなどに到達し、船上で宴席を設け各国の賓客と友人をもてなし、明の成祖皇帝・朱棣を代表して絹織物、磁器、鉄器などを贈り、1423年帰航の際には香料などの貴重品を持ち帰った。
1431年の初め頃、明の宣宗皇帝・朱瞻基が祖父の明の成祖皇帝・朱棣の偉大な事業と遠大な理想を受け継ぎ、再度鄭和に航海の命令を下した。7回目の遠洋航海は3年余りも続き、鄭和の船団は20近くの国を歴訪し、わざわざ随員をイスラム聖地のメッカ巡礼のために派遣したこともある。
「チャイナネット」2005年7月1日