侵略軍は残忍を極まめた
2005年5月7日の記者会見で、日本の町村外相は同じやり口を繰り返し、理不尽にも旧日本軍の残虐行為を記録した中国の教科書を非難した。日本政府はそれ以前に、歴史を歪曲し侵略の歴史を美化した歴史教科書を認定したばかりなのに、町村外相は今回「被害者」を装ったのである。これは氏の歴史知識の貧しさと理非曲直の顛倒を反映するものである。
一、旧日本軍の行為そのものが非常に残虐であり、中国の教科書に「残虐」に描かれているものではない。二、中国の教科書の日本軍の残虐行為についての記述は歴史上の事実のほんの一部を取り上げたものである。三、日本による侵略の歴史を教科書に書き入れる原因は三つある。1、これは中国の近代史における最も重要な内容のひとつである。2、この痛ましい歴史を教育して再度繰り返されることを防ぐこと。3、歴史の結論をくつがえそうとする日本の右翼勢力の行動に対する反撃である。
ナチスの歴史を恥じとするドイツと異なり、日本の右翼勢力は軍国主義の戦敗を残念に思い、東条英機らの戦争責任者の後継者をもって自任し、しかも、こうしたみにくい行動を「自虐史観反対」「日本精神の再興」と標榜している。
周知のとおり、19世紀の後期から20世紀の中期にかけて、日本は中国を侵略し、このうえなく大きな罪を犯した。1894年の甲午戦争(日本では一般に「日清戦争」といわれている)以後、日本は中国の領土である台湾を占領し、賠償金として中国から当時の日本国の歳入の4.5倍に相当する銀を奪い取った。1905年の日露戦争以降、日本は中国の旅順、大連を占領した。1931年に中国の東北地域を占領した。1937年から、日本は侵略戦争を中国の華北、華東、華南地域に拡大した。中国を侵略した日本軍はいたるところで狂気のように一般の人たちを殺りくしたり、財産を略奪したりして、人類の近・現代の歴史において稀れに見る野蛮な罪を犯し、中国人民に多大な災禍をもたらした。日本の対中国侵略戦争によって、中国は死傷者3500万人、経済的損害6000億ドル以上の巨大な被害を蒙った。
侵略戦争当時の日本軍の残虐行為については、如何なる教科書もそれを完全に記録にとどめることは不可能である。下記の例は山ほどもある犯罪行為の史実の一部を取り上げたものにすぎない。
1、虐殺事件
旅順大虐殺――1894年11月21日、日本軍は旅順を占領した後、第二司令官の許可と第一師団長山地元治の指揮の下で、中国の一般の人たちに対して4日間にわたる虐殺をくりひろげ、2万人を殺りくした。
済南虐殺事件――1928年5月3日から11日にかけて、中国の山東省に二度出兵した日本軍は中国の外交官と一般市民を殺りくした。世界赤十字済南分会の調査によると、この虐殺事件で6123人の死者、1700人の負傷者、2957万元の財産損失が出た。
平頂山虐殺事件――1932年9月16日、日本侵略軍は抗日勢力に対する報復を理由に撫順炭鉱付近の一般の人たちを殺りくし、3000余人がその場で殺された。
南京大虐殺――1937年12月13日、日本侵略軍は南京城を占領し、華中方面軍の松井石根司令官と第6師団の谷寿夫師団長らの指揮の下で、中国の一般の人たちと武器を手放した軍人に対して6週間にわたる虐殺をおこない、30万人が殺された。これはドイツのナチスによる「アウシュビッツ強制収容所」の大虐殺よりも残酷な世界的な虐殺事件である。
2、「三光政策」
日本侵略軍は戦争の中で野蛮な「三光政策」を実行した。「三光政策」とは「焼き尽くし、殺しつくし、奪いつくす」という政策である。日本軍はこの政策の下で、無数の残忍きわまる事件を引き起こした。1942年5月、河北省中部の農村を掃討した際、地下道に隠れていた村民に対して毒ガスを放ち、1000人余りを殺した。日本軍によるこのような虐殺行為はほかにも数え切れないほどある。
3、細菌戦
1931年9月18日、日本軍は「9.18事件(中国東北部に対する侵略の発端)」を起こした後、軍医の石井四郎は細菌戦を提唱し、細菌戦部隊の創建を受命した。1932年、石井四郎は日本国内の実験基地を中国の東北地区に移し、ハルビン以南の二背蔭河鎮に細菌実験工場を設置した。1935年には平房鎮にそれを移し、731部隊と改称した。その後の12年間に731部隊はペスト、コレラ、チフス、下痢、たんそ、結核などの病菌を研究製造し、5000人以上の一般の人たちや捕虜に対して人体の解剖や各種生物菌の培養を含めた大量の悪虐非道の実験をおこなった。
日本軍は相次いで中国63の都市に細菌製造工場を設置し、1945年までの12年間に中国20余の省(区)で少なくとも36回以上細菌武器を使用した。大まかな統計によるだけでも、27万人の一般の人たちが細菌戦で死亡し、日本軍が撒布した細菌の蔓延によって死亡者人数は数え切れないものである。
4、化学兵器
日本軍は中国を侵略した際、大量の化学兵器を使用し、中国人民に大きな災禍をもたらした。日本は1927年に大久野島に毒剤工場を設立し、毒ガス弾を研究生産し、多くの化学弾薬を保存した。1933年に化学軍事署と化学戦部隊を成立し、化学兵学校をも設けた。化学第516部隊は大規模な化学兵器の実験をおこなった。
日本軍の対中国化学戦は1937年から1945年までの8年間に、中国の18の省で繰り広げられた。正確に記載された化学戦の回数は2000余りで、中国軍人の死傷者数は8万人以上と言われているが、実際の死傷者数はこれより多い。ろ獲した日本軍の化学戦の記録を分析すれば、回数は中国側の記録の二三倍に相当する。
1942年に、日本軍は河北省定県の北垣村で800人あまりの村民に対して毒薬を使った。これが内外を震撼させた「北垣村事件」である。
5、慰安婦
日本軍はアジア諸国を侵略する期間に、いわゆる「慰安所」を設立した。強制や欺まんの手段でアジア諸国から数十万人の女性をかき集め、「従軍慰安婦」として、日本軍の集団的強姦に等しい行為の相手をさせた。
6、重慶空爆
1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍は当時の中国の戦時首都であった重慶に対して5年間半に渡る空爆を実施した。大まかな統計によると、日本軍は延べ9513回、2万1593個の爆弾を落とした。空爆によって1万1889人が死亡し、1万4100人が負傷し、1万7608棟の家屋が破壊された。
1946年5月16日の夜9時ごろ、日本軍は飛行機24機を3組に分けて、3時間にわたって輪番に空爆を実施した。1万人あまりの市民が4500人しか収容できない防空壕に避難した。防空壕の上部が着火し、ぎゅうぎゅう詰めの状態でさらに酸欠が加わり、大人9992人と児童1151人が死亡、重傷者は1510人に達した。これは日本軍がつくりだした、人びとを唖然とさせた重慶防空壕事件である。
近年、日本の政界ではこれら侵略の罪悪行為を美化する動向がますます盛んになってきている。これに対して、中国およびアジア諸国はこれを厳正に批判し、真っ向から非難しなければならない。それと同時に、日本の侵略の歴史に関する研究と教育をさらに強化する必要があると思う。
(作者 中国社会科学院日本研究所教授 金煕徳)
「チャイナネット」2005/05/27