政  治
政府見解
国内政治の動き
往来と交流
人事任免事項
  経  済
産業経済動向
政策情報
地方経済
中国進出日本企業
視  点
  生態環境
砂漠化対策
治  水
造  林
汚染処理
その他
  文  化
文化情報
食文化
考古学
健  康
  時 の 人
  社   会
  論   壇
  観   光
  友好の広場
検索
天気予報:
犯罪事実を認め、切に謝罪を求める

1956年6月9日午前8時半、瀋陽に設置された特別軍事法廷で旧日本軍陸軍117師団長の鈴木啓久中将ら8人の戦犯に対する裁判が行われた。

日本の無条件降伏後、その戦犯に対する裁判は3回行われた。それぞれ極東東京国際法廷、南京国民政府、新中国成立(1949年)後の瀋陽(遼寧省)と大原(山西省)で行われた裁判である。

鈴木啓久の案件は当時の「1号案件」で、本人は当時の法廷で以下のことを供述し、犯罪事実を認め、切に謝罪を求めた。

氏の指揮下にあった日本軍は河北省唐山付近の潘家戴荘、遵化県魯家峪に対して掃討作戦をおこない、遵化と遷安に「無人区」をつくり、度重なる虐殺行為に出た。潘家戴荘だけでも一度に1280人余りの村民を殺りくした。

日本軍は村民を脱穀場に集めて虐殺した。具体例として、嬰児を母親の懐から奪い、地面にたたきつけて殺す、妊婦の腹部を切り裂き、人を生き埋めにし、薪を積み上げて火をつけ人を焼き殺す、軍刀、機関銃などで1280余人を殺りくした。その後、村中の家屋をすべて焼き尽くし、食糧や衣服などの物資を奪った。

罪のない一般の人や捕虜を刺突訓練の的とすることは日本軍兵士の肝試しの重要な手段であった。旧日本軍陸軍59師団長の藤田茂中将は瀋陽の法廷で次のことを認めた。1939年の中条山の戦闘で、8人の捕虜を兵士の訓練のため生きた的として殺した。1945年、山東省海陽県索洛荘付近での初年兵の刺突訓練で、非戦闘員である一般人7~80人の老若男女を殺した。

旧日本軍731部隊の細菌戦について日本の歴史教科書は一言も触れていない。731部隊第16支隊長の榊原秀夫少佐は法廷で次の犯罪行為を供述した。1943年5月、4人の抗日人士を実験に使い、1945年にコレラ、チフスなど870本の試験管の細菌を培養し、ネズミやノミを捕らえて繁殖させ、大規模な細菌戦の準備をおこなった。

我が国の大地で日本軍はかつて討伐、掃討を繰り返し、「三光政策(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす政策)」を実施し、広い範囲で町や村を破壊し、「無人区」や「無人地帯」をつくり、罪のない一般人を突き殺し、斬り殺し、生き埋めにし、溺れ死させ、焼き殺し、毒ガスを放つなどの手段で虐殺した。捕虜となった者を軍事訓練の的とし、生きた人間を細菌戦の実験サンプルとした。

撫順に設置されていた戦犯管理所の統計データによると、瀋陽の軍事法廷で裁判を受けた36人を含む982名の戦犯は、捕虜や罪のない一般人を94万9814人も殺害し、401万人を追い払い、食糧3600万㌧余り、石炭2.2億㌧余り、鉄鋼2000万㌧を略奪した。

 

記者として当時の裁判の報道にたずさわったことのある瀋陽文史館の劉文玉館長は、確実な犯罪事実の前で、どの戦犯も犯罪行為を認め、大声をあげて泣きひざまずいて自分を厳罰に処することを求めた者もいた、と語った。

「チャイナネット」2005/06/01

DATE:
このページを印刷
メールで送る
|
Copyright © China Internet Information Center. All Rights Reserved
E-mail: webmaster@china.org.cn Tel: 86-10-68326688