張進山:戦後の中日民間交流の地位と役割
戦後半世紀にわたる歳月の中で,中日関係は漫々たる紆余曲折の道を辿りながら,不正常な状態から正常な発展へと,民間交流から国家間往来へと,友好貿易、単一貿易から経済貿易の全面協力へと発展し,そして,実務的にも成熟した時期を迎えようとするところまできた。しかし,その間,民間交流は巨大且つ特殊な役割を果たしたのである。無数の仁人志士たちは大量の心血を注ぎ尽くし、全生涯の精力を捧げ,切々と人の心を打つような称賛すべき不朽の詩篇を書き記した。それがゆえに,中日民間交流は人の目を引く存在となり,終始,戦後中日関係史の発展全過程を貫いてきたのである。今日のような良好な中日関係を得たのは,容易なことではないが,最も大切なのは,民間交流の功績を忘れてはならないことである。

(一) 貿易から着手し,経済でもって政治を促す。

 経済はすべての基礎であり,中日人民と両国政府を結ぶ絆である。貿易は触媒であって,中日政治関係の改善をつねに推進してきたのである。50年代初期の記帳方式によるバーター貿易があったからこそ,初めて中日両国民間往来のための道が開かれ,政界を含む日本各界の人たちは種々の困難を克服して,中国と往来できたのである。相次いで調印された四回の民間貿易取り決め(協定)があったからこそ,初めて50年代における中日国交回復を求める友好運動は盛んに盛り上がったのである。「友好貿易」、「友好商社」という創造的やり方があったからこそ,初めて「長崎国旗事件」後の両国往来は完全に中断せずにすみ,そして,中日関係に関する「政治三原則」と「政治経済不可分」の原則は生まれたのである。「LT貿易」の誕生があったからこそ,初めて両国関係は半官半民の発展段階にはいり,ひいては,1972年の中日国交正常化は実現できたのである。中日国交回復後の両国関係は全面的且つ順調に発展できたのも,経済貿易協力のもつ巨大な潜在エネルギーと魅力がその重要な要素の一つだったからである。もちろん,良好な政府間の政治関係は,かえって両国経済貿易関係の発展をも促進することができ,頻繁な政治的交流と往来も,相当な程度において経済に奉仕するためのものであった。例えば,1989年の「6.4」風波の後,日本政府は敢えて西側諸国の対中政策を突き破って,率先して経済分野を含む中国との関係の全面回復に踏み切ったことも,その一例である。

(二) 民間が先導し,民でもって官を促す。

 中日民間交流は,また中日「民間外交」ともいう。これは50年代において,両国はまだ国交回復せず、国際法でいえば,まだ戦争状態におかれている状況下で行われていた非政府間的交流方式である。当時の民間交流はつねに中日友好運動の先頭に立って,中日往来の先駆けとなり,両国関係打開のために道を開いたのである。彼らは中日両国人民間に存在する伝統的友情の偉大な力でもって,まず経済と文化の交流から着手し,不断の積み上げと条件造りによって,逐次に日本政府に対し中国政府との接触をよぎなくさせ,そして,中日政府間関係の前進を推進できたのである。いいかえれば,中日民間交流はまるで上質で強力なガソリンのように,つねに官式エンジンである日本政府に働きかけ,中国政府との接触と関係改善を促した。例えば,帆足計ら3人の国会議員は日本政府の妨害を顧みず,逸早く訪中して,中日往来の扉を打開した。中日民間貿易取り決め(協定)の調印は,両国貿易往来の展開に可能性を提供した。双方の民間団体による中国在留日本人や日本に強制的につれてこられ受難死亡した中国人労働者遺骨等の自国送還など,両国政府間でできない緊急に解決が求められる問題を解決した。中日民間漁業協定の調印によって,両国の漁民たちは安全且つ秩序のある海上作業ができるようになった。中日民間文化交流協定の調印は,両国間の交流を文化と科学技術の分野まで拡大させることができるようにした。また,役人肩書きのついた李徳全、郭沫若、雷任民、王震等の中国政府要人の訪日は,意識的に政治と政府色を突出させたことにより,はじめて中国側と公的接触をしないという日本政府の立ち入り禁止区を打破したのである。とくに,両国民間交流の拡大と日本政府の対中政策改善を要望する日中友好運動の盛んな展開により,50、60年代における日本の歴代政府は,対外政策を制定、実行するとき,いずれも中国の要因とその存在を考えざるを得なかったのである。その中で,50年代から中日の民間貿易に参与しはじめた政府の背景をもった日本日中輸出入組合は,このような「民間外交」の作用の下で生まれたものである。

(三) 半官官民,民でもって官を代行する。

 50年代の「民間外交」は,「民でもって官を促す」ことを推進した結果,60年代の中日間「LT貿易」機構駐在員事務所の相互設置と,「民間大使」とよばれた西園寺公一氏の北京駐在が実現できるようになったのである。周恩来総理と松村謙三氏との間の約束によって成立した「LT貿易」は,双方とも背後に政府の背景があり,実際には半官半民の常設機構であった。中国側の廖承志弁事処は直接国務院の指導を受けていた。その構成メンバーは,いずれも外交部、対外貿易部等の政府部門から派遣され,対外貿易部の地区政策第四局に対日連絡の事務を担当させていた。一方の日本側の高碕達之助事務所である日中総合貿易協議会は,そのメンバーも主に内閣大臣の経験をもつ政治家や通産省あるいは大蔵省の官僚,そして財界人から構成され,つねに日本政府と密接な連絡を取っていたため,実際には,政府色の非常に濃い通産省の外廓団体であった。60年代の初めから1972年の中日国交回復までに,「LT貿易」は,中日総合貿易の直接参加と開拓をしたばかりでなく,双方の政界人士の相互訪問と政府間の相互意思疎通のためにも,斡旋、仲介と難題解決の役割を果たし,「小さな大使館」の機能をもっていたのである。例えば,1963年,「LT貿易」の中日双方は,日本政府の許可を得た日本輸出入銀行の借款による最初のプラント契約を調印した。1964年,「LT貿易」の手で,両国間の記者交換を実現させた。また,「LT貿易」は,終始日中友好と日中国交回復のための国民運動と相呼応し,連携しあっていた。70年代初期の「双王旋風」、「孫平化旋風」の日本上陸と日本の「友好旋風」、「政党旋風」の北京訪問から,田中首相の正式訪中と中日国交正常化の最終的実現にいたるまで,実際に公的機能の特殊な役割を果たしたのである。これはまさに当初の高碕氏のいわれたとおり,中日関係を促進させる面において,「LT貿易」機構は,まるで掘削機が用水路を掘るようなものであった。中日双方はまず両端から中心に向かって同時に掘りはじめ,最終的に貫通させるところまで掘りつづけたのである。これはすなわち「水が来れば,溝ができる」というたとえでもって,「LT貿易」の役割を形容したのである。

(四) 官民並行,相互補完。 

 70年代の中日国交回復の実現と両国関係の正常な発展軌道への定置にともない,中日の民間交流は,速やかに拡大した。ルートが絶えず広く開拓され,機構が逐次に多くなり,形式が日増しに多様化し,役割がますます著しいものになったのである。「中日民間人会議」、「中日友好21世紀委員会」、「中日友好交流会議」等民間の定期交流体制の相継ぐ設置、中日長期貿易協定の調印、それぞれの地方政府レベルの交流関係及び各業種間交流関係の確立は,政府間定期会議制度、政府間協定及び政府交流機構とともに肩を並べて前進し,お互いに促進しあい,補完しあってきた。このため,両国の間で,官民並行してともに栄え,両々相俟ってますますよい成果を収める新しい局面が形成された。実践が立証しているように,中日国交回復後の民間交流は,ますますその強固な大衆基盤の底力とさらなる強い生命力が現れ,中日関係の発展にとって,依然として欠くことのできないものであった。そして,いつも潤滑油や天秤の錘のように,つねに政府間の関係を円滑にし,調節して,その平穏な運行を保ちつづけさせていたのである。以上をまとめていうと,中日民間交流は,両国の政治、経済、文化等の分野における全面、長期且つ健全な発展を促進するうえで,政府あるいは他のどのようなルートでも,取って代わることのできない非常に重要な役割を果たしていたのである。

中日両国は隣り合って住み,鶏と犬の鳴き声が聞こえる近い距離にあって,2000余年にわたる友好往来の悠久なる歴史と長きにわたる民間交流の伝統をもっている。戦後,周知のような原因により,両国は27年間にも及ぶ不正常な状態におかれていた。だが,あの非常に困難な時代に,民間交流のルートがあったからこそ,中日往来の道が打開され,そして,その「漸進的な積み上げ」によって,両国の国交正常化が実現できるようになった。中日国交回復後,民間交流の陣営は速やかに拡大し,政府間の交流と補完しあって,両国の友好協力関係の全面的発展を促した。冷戦後,国内外情勢の変化にともない,中日の民間交流はまた時代の流れに順応し,平等互恵の精神に則って,着実で地味に事を運び,終始一貫して中日友好及び両国の繁栄と発展に力を注ぎ,ますます成熟に向かう両国関係の発展のためにやすむことなく努力をつづけてきた。

 「中日友好は,結局,両国人民の友好である。」未来を展望して,中日の民間交流には洋々たるうるわしい前途をもっている。しかしながら,錦上花を添えようとするには,任重くして道遠しということであるから,双方はともに百尺竿頭一歩を進める必要がある。そのためには,

 まず,両国の政府は民間交流を高度に重視し,それを両国の末長い友好、協力発展と共同繁栄にかかわる重要な地位に据え置くと同時に、力強い協力と必需な支援を提供すべきである。

 その二,民間双方は,さらに高く、遠く、新しい目標を打ちたて,新しい姿勢、新しい措置、新しい内容、新しい様式でもって,中日友好をさらなる高い段階に向けて,より広く、深く推進することである。

 その三,両国の民間団体としては,より一層文化交流を推進し,人事往来を拡大し,相互間の文化的違いを取り除き,「心と心」との相互理解の増進に務めなければならない。そして,それによって,お互いの疑心暗鬼を解き,信頼感を増進して,感情の面における真の正常化を実現させることである。

 その四,両国関係のますますの成熟にともない,新しい問題や矛盾、あるいは摩擦などが必然的に生まれてくる。しかし,民間双方は大所高所から出発して,『中日共同声明』、『中日平和友好条約』と『中日共同宣言』の基本に基づき,開いた胸襟、冷静な思考、穏やかな態度、理性ある行動、たゆまない精神でもって,双方の政府に協力し,問題の善処をするように努力すべきである。そして,それによって,両国の友好に不利益なものは芽生えの段階で取り除き,中日関係の順調で健全な発展を保てるように勉める必要がある。

 その五,中日友好ということは,両国人民、とくに両国の青年たちに希望と期待を寄せているものである。したがって,民間双方とも,両国青少年間の交流をさらに広げ,若い後継者の育成を急ぐことが必要且つ重要である。そして,このことによって,中日友好の大業を勢いよく発展させ,世々代々までに伝えてゆくことができるのである。

(作者は中国社会科学院日本研究所副所長)


 
 
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