張進山:戦後の中日民間交流の軌跡と特徴
国と国との付き合いのなかで,何らかの原因、目的,あるいは必要によって,一時期の段階において,民間の形で,個人あるいは団体として交流に従事することは,あまり珍しくない。しかし,戦後50余年にも及ぶ中日民間交流のように,両国国交正常化の実現と相互間の恒久的な平和と友好、共同繁栄のため,組織的に特徴のある大規模な大衆運動に発展したことは,国際関係史上において尚更なことで,また,二千余年にわたる中日交流の歴史の中でも,実にまれに見ることであった。このような「民間外交」、「友好運動」と称される戦後の中日民間交流では,無から有へ、小から大へと発展し,民衆の中に深く根をおろし,長いこと衰退せず,ずっと旺盛な活力と発展趨勢を保ちつづけてきたことで,戦後両国関係の発展史上において重要な地位を占め,特殊な役割を果たしてきたのである。人類社会がすでに二十一世紀にはいり,中日国交回復の実現も30周年を迎えようとするときに際し,過去半世紀にわたる中日民間交流の辿った軌跡を回顧し,その特徴と役割を探ることは,疑いもなく非常に重要な歴史的意義と現実的意義をもつものであろう。

二、 軌跡と特徴

 本稿の研究する対象と空間は一応戦後における中日民間交流のことであるが,しかし,敗戦直後,日本としてはまだ米軍の占領下におかれ,法による国際的な戦後処理を受ける必要があった。中国としても抗日戦争の勝利を迎えた後,直ちに国内の解放戦争に突入した。これらの客観的情勢の影響により,両国民間交流の開始は戦後すぐにはできず,正確にいうと,その始まりは新しい中国,即ち中華人民共和国が成立してからであった。それ以来,中日両国の民間交流はもう50年間の歳月を辿り,すでに当初の涓々とした細い流れから滔々と流れる大河になり,茨の生い茂った小さな山道から幅の広い平坦な大道になったのである。だが,その間,国際情勢の絶え間ない変化と両国それぞれの国内政情の変動にともない,中日民間交流の目指す目標の重点はそれぞれ異なり,その活動の様式や特徴もずいぶん違ったのである。

(一)中日関係打開への模索期 (1949年−1960年) 

 第二次世界大戦の終結と新中国の成立にともない,中日両国は平等な地位と平和共存の五原則に基づいて,いちはやく平和条約を締結し,正常な国家間関係を回復すべきだったのだが,しかし,日本政府は米国からの圧力に屈従し,蒋介石との間で『日台条約』の締結といわゆる外交関係の樹立をし,そして,中国反対、「二つの中国」政策を推し進めた。このことで,中日関係の発展に支障をきたし,一時期両国間で何の往来もなかった隔絶状態になってしまった。このような状況のもとで,中日往来の扉を打開するために,両国の民間交流は困難に満ちた長い道程を歩み始めたのである。

 

 1、組織を作り,力を結集する。1949年中頃,日本において中国革命達成の間近いことを見通し,平和を擁護し,戦争に反対する先見の明を持つ一部の有識者たちがいた。彼らは新中国との間で,貿易往来や文化と友好の交流を行い,早い時期に両国の国交回復を実現させることを図り,中華人民共和国成立前夜の5月、6月にもいち早く「中日貿易促進会」、「中日貿易促進議員連盟」、「中日貿易協会」など貿易三団体を率先して結成した。続いて,新中国成立わずか10日後の10月10日,また,日中友好協会の成立準備会を開き,翌年の10月1日に結成大会を開催した。その後,50年代末頃までに「日中貿易促進地方議員連盟」、「中国帰還者全国連絡会」、「日本国際貿易促進協会」、「日中漁業協議会」、「日本日中輸出入組合」、「日中文化交流協会」、「日本日中国交回復国民会議」等等の日中友好民間団体が相次いで結成された。これらの団体や組織の結成により,後の中日関係の打開と幅広い中日友好運動の展開に力を結集し,基盤を固めることができたのである。時代の推移と情勢変化の必要にともない,その後,一部に合併や名称の変更などがあったものの,しかし,その絶対的多数が今日に至っても中日民間交流の第一線で活躍し,中日友好の中堅的役割を果たしつづけてきたのである。

 

 2、模索の中で開拓し,紆余曲折の中で前進する。1949年から1960年までにおける中日の民間交流は,おおむね三つの段階に分けられる。1949年の末,日本の中日貿易促進会が工夫をして,まず中国対外貿易部と連絡をとり,翌1950年1月,新中国政府の華北進出口公司との間で最初の記帳方式によるバーター取引契約を結んだ。しかし,相手としての中国側の行為はあくまでも政府的なものであるから,この契約による双方間の貿易はまだ戦後における完全な意味での民間往来とはいえず,本当の意味での中日民間往来の始まりは,1952年5月の帆足計氏ら三名国会議員の訪中からである。彼らは吉田政府の対中禁輸と封じ込め政策を打破って,パリやモスクワ経由で北京に入り,中国側の貿易団体との間で第一次中日民間貿易取り決めを調印した。これをきっかけに,続いて1953年に第二次中日民間貿易取り決めの調印をした。また,中国紅十字会と日本赤十字社など三団体との間で,中国在留日本人や在日華僑,ならびに戦時中に日本に強制連行されて死亡した中国人労働者たちの遺骨など,それぞれ本国への送還を始めた。これらの民間接触によって,両国間の人的交流と貿易往来の道が開かれ,当時,政府間でできない緊急に解決が求められていた課題が解決されて,両国交流の幕開けとなったのである。これは,すなわち50年代初期における両国民間交流の「障害を乗り越え,接触を始める」段階だったというべきだあろう。

 50年代の中頃に入ってから,1954年に鳩山政府が吉田内閣に取って代わり,対中政策の面で柔軟性を見せ,政府色のついた中日民間往来の増加と拡大に「支持と協力」の態度をとるようになった。それにともない,中日両国間の民間交流は急速に拡大をみせ,中国からも訪日代表団を送り始めたのである。この年の中国の国慶節をはさんで,二つの大型超党派の日本議員団40名が同時に北京に集まり,中国の国慶節式典にも出席した。続いて,李徳全衛生部長を団長とし、廖承志を副団長とする中国紅十字会代表団が,新中国成立後はじめての訪日代表団として訪日した。これらのことは,単なる今までのような日本側の一方的訪中歴史の終わりと中日間の相互訪問の始まりを告げただけでなく,同時に相互訪問のレベルアップと足取りの加速、そしてその政府色がますます濃くなってきたことの表れでもある。それ以来,中日双方の人事往来が日増しに増えてきた。1955年だけでも日本からの訪中者は800人となり,中国の訪日者も112人までに急増した。経済と貿易の面では,第三次中日民間貿易協定と第一次中日民間漁業協定の調印、商品展示会の相互開催もはじめて実現した。文化交流の面においても,最初の中日文化交流協定の調印により,両国間の文化、科学技術に関する交流活動は,日増しに頻繁になってきたのである。以上からみられたように,1954年から1957年までの間は,民間交流の「相互訪問の開始と交流・往来の拡大」の段階だったといえよう。

 1958年から1960年までの50年代の後期は,中日民間交流の「逆流に反撃し,後退でもって前進を図る」段階だったと思われる。1957年2月の岸政権の登場で,中日関係に逆流が生じた。彼は「二つの中国」の陰謀を翻弄し,蒋介石の「大陸収復」への支持、第三次中日民間貿易協定履行への破壊と第四次中日民間貿易協定交渉への撹乱など,一連の中日関係を損なう政策をとった。そのため,とくに「長崎国旗事件」(1958年5月2日、岸信介政府の放任と黙認の下で、一人の日本右翼団体の暴徒が長崎市内のデパートで開催中の『中国郵便·切り紙展示会』会場にかざっていた中国の国旗をひきおろした。この中国国旗侮辱事件に対して、日中友好協会長崎支部等の主催団体は日本政府当局に暴徒を厳重に懲罰するよう強く要求したにもかかわらず、当局は事件として取り上げず釈放してしまったことである。)発生後,今まで双方の並々ならぬ努力によって築いてきた中日間の交流関係を急速に悪化させたのである。この岸らの反中逆流に反撃するため,中国側は「後退でもって前進を図る」という策略をとって,「すべての対日貿易活動とその他の交流の停止」を発表すると同時に,中日関係発展に関する「政治三原則」(一、岸政府が中国を敵視する政策を止めること。二、岸政府が「二つの中国」をつくる陰謀を止めること。三、岸政府が日中国交正常化を妨げないこと。)と「政治経済不可分」の原則を提示し,日本民間の力を動員して,中日友好運動の盛り上がりを更なる新しい段階に推し進めようとしたのである。1959年3月,北京訪問中の浅沼稲次郎日本社会党委員長は「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共通の敵である」という重要な談話を発表し,中国側の提示した「政治三原則」への完全同調と中国との国交早期回復への強い意思を強調した。また,9月訪中の石橋湛山元首相も,「政治経済不可分」の原則に賛成の意を表明した。両氏訪中の励ましとその影響を受けて,日本国内ではすさまじい勢いで新日米安保条約反対と日中国交回復を要求する国民運動が盛り上がった。とくに1960年の5月、6月にはいると,日本の各野党、社会団体と労働組合等による五、六百万人が参加する大規模なゼネストやデモが,連日のように行われ,その戦いは一段と高まりをみせた。結局,7月15日に行き詰まった岸内閣が総辞職を余儀なくされたのである。

(二) 国交回復への基盤形成期(1961年−1972年)

 60年代にはいってから,新しく誕生した池田内閣は,対中政策の面において「政経分離」を継続しながらも,一部の調整をして双方向交流の再開への歓迎、両国貿易発展への支持、部分的政治色のついた交流への黙認、自ら民間人士に委託しての中国政府との意思疎通を図るなど一連の新しい動きをみせ,前向きの姿勢をとった。これに対して,中国側も原則を堅持しながら,最大限の誠意と柔軟性をもって対応した。このような双方の共同努力により,中日関係は転機を迎え,民間交流が迅速に回復され,且つ前進と発展をみることになり,そして「半官半民」或いは「官でもあれば民でもある」という新しい段階にはいったのであり,ひいては,「漸進的な積み上げ」によって,中日国交正常化の実現ができたのである。

 

 1、漸進的に積み上げ,逆境の中で発展する。池田内閣の対中政策変化にともない,「長崎国旗事件」後の両国往来の中断による日本経済、とくに中小企業経営難の実際状況を考慮して,1960年8月,周恩来総理は中国の対日貿易方針に関する「貿易三原則」(これはまず日本政府に対する「政治三原則」の立場に立つことを前提とする上で、第一に政府間の貿易協定の締結、第二に日本民間企業との間での個別契約の実施、第三に個別的な日本友好商社に対する配慮物資の斡旋である。)を提示した。それと時を同じくして,中日間の民間貿易方式も「取り決め貿易」から「友好貿易」に切り替えた。そんな中で,1962年9月,自民党顧問の松村謙三氏は池田首相の「全権」委託を受けて訪中し,周総理との間で,漸進的な積み上げ方式による両国の政治と経済関係を発展させることで意見の一致をみた。つづいて,その意を受けて11月に訪中した元通産大臣の高碕達之助氏は,廖承志氏との間で「LT貿易」(中日長期総合貿易協定の覚え書きに調印した廖·高碕両氏の頭文字をとっての略称である。)に調印し,中日間の新たな半ば政府性格の貿易ルートを切り開いた。1963年10月の中日友好協会の成立と1958年からの日本著名人士西園寺公一氏の北京駐在により,中日の民間交流に決まりきった連絡窓口と,新しい橋渡しルートが増加されて,中日民間交流を新たな発展段階に導いていったのである。1960年7月の劉寧一氏の率いる中華全国総工会代表団の訪日を皮切りに,両国の政治、経済、文化、スポーツ、宗教などあらゆる分野における民間交流は,再び速やかに発展するようになった。とくに「友好貿易」と「LT貿易」は,まるで「車の両輪」のように中日間の貿易を同時に推進し,絶えず拡大させていくことができたのである。

 しかし,1964年末に政権の座についた佐藤首相は,岸信介に勝るとも劣らない対中敵視政策を採用したことで,60年代後半の中日関係は再び冷却の局面をもたらした。しかし,両国間にはすでに複数の交流ルートがあり,長い間の民間交流も豊富な闘争経験を積んでいたため,今度は中国側もただちに双方の交流と往来を中断することはなかった。闘争の中で発展を求め,逆境の中で前進を謀るという対策を取り,中日交流を更なる高い段階と目標に絶えず推し進めたのである。1968年から中日双方の間で「LT貿易」を「MT貿易」(「覚書」と「貿易」のそれぞれの英文頭文字を取っての略称である。)に変更したため,半ば政府間の貿易と交流の続行が保証された。また,「友好貿易」という民間ルートも有効に運用され,交易会が続行できた。この二つのルートの機能続行により,60年代後半における中日間の貿易は,終始すばらしい発展の勢いで推移させることができたのである。人事往来の面においても,両国民間の交流範囲はつねに拡大され,往来人数も絶えず増えつづけてきたのである。その中で,1965年に訪中する500名の日本青年と中国青年達との間で行われた青年友好大交歓会は,これまでない最大の人数で,影響力の最も大きな交流活動となったのである。つづけて翌年に行われる予定の第二回中日青年友好大交歓会は,佐藤政府の日本青年へのパスポート発給拒否によって予定どおりに実現できなかったものの,しかし,中日友好に注いだ両国青年たちの情熱は,中日国交回復の曙がすでに近づいていることを告げ,佐藤政府の逆行的行動は,その政治余命がすでに西山に迫った陽のように行く場もないことを立証してみせた。

 

 2、国交回復の気運を盛り上げ,相互訪問の「旋風」を巻き起こす。70年代の始め,国連における中華人民共和国の合法的地位の回復、アメリカ大統領ニクソン氏の訪中など,中国を取り巻く国際情勢に大きな変化が起こった。中国政府としては,時を移さずに「中日貿易四原則」(一、もしも日本の商社、メーカーが中国と貿易しようとし、同時に台湾蒋一派の「大陸反攻」を援助し、南朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国の侵犯を援助するようなことがあるならば、われわれは彼らと商売しない。二、台湾と南朝鮮に多額な資本投下を行っている商社、メーカーについても、われわれは彼らと経済往来をしない。三、アメリカ帝国主義のベトナム、ラオス、カンボジア侵略のために、武器·弾薬を提供している企業について、われわれは絶対に彼らと往来しない。四、日本にある米日合弁企業及びアメリカの子会社についても、われわれは彼らと商売しないというものである。)と「中日国交回復三原則」(一、中国は唯一つ、即ち中華人民共和国である。中華人民共和国は全中国人民を代表する唯一の合法政府であり、「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」或いはそれと類似する理不尽ないかなる主張に断固反対する。二、台湾は中華人民共和国領土の不可分の一部であり、「台湾地位未定論」や米日反動派の画策する「台湾独立」陰謀に断固反対する。台湾問題は中国の内政問題であり、いかなる外国もそれに干渉してはいけない。三、いわゆる「日台条約」は中華人民共和国が成立後に調印され、不法で無効なものなので破棄されなければならない。)を提示し,政治の角度から中日関係の更なる発展に関する政策主張を明らかにした。それを受けて,中日国交回復を求める日本各界の呼び声が日増しに強くなり,「日中国交回復促進議員連盟」、「日中国交正常化国民協議会」、「日中国交回復国民会議」など日中国交回復のための大衆組織が,相次いで結成された。これらの組織や友好団体と野党との力強い推進の下で,中日国交回復の国民運動は日本の各地で嵐のような勢いで盛り上がった。とくに1972年にはいると,その高まりは一層強くなった。例えば,2月25日,日中友好協会中央本部の主催により,東京で「日台条約即時破棄、日中国交回復実現中央集会」が開かれた。3月1日,社会党、公明党、総評、日中国交回復国民会議、日中国交正常化国民協議会の五団体が,日中国交回復実現国民大会を開催し,2000人が参加した。4月11日,日中国交回復議員連盟の藤山会長、社会、公明、民社各党の委員長及び労働組合、日中貿易団体、日中友好団体の代表並びに西園寺公一氏等の各界著名人23人が,共同して日中国交回復促進連絡会議を組織した。日中友好協会と日中国交回復国民会議はさらに,7月7日から8月15日までを日本軍国主義反対、日中国交回復月間とし,集中して大規模な大衆活動を展開した。この基礎の上に,日中友好協会は全国から6000名の代表を招集し,8月20日に中央集会を開き,田中首相の迅速な訪中を求め,そして,大会後には,盛大な宣伝活動と大衆によるデモ行進を行った。それと合わせて,日本の各民間団体、自民党三木派の三木武夫氏を含む各政党及び財界などは,相次いで訪中団を派遣し,中日国交回復を目的とする友好の「旋風」を巻き起こした。同時に,それぞれ中日友好協会との間で共同声明を発表して,中日国交回復に関する各自の政策主張と政治的立場を表明した。田中内閣が成立した後,元社会党委員長の佐々木更三、「日本のキッシンジャー」と呼ばれる公明党委員長の竹入義勝、自民党議員の古井喜実などの政界人士は,頻繁に東京と北京の間を飛びまわり,両国政府間のパイプ役と橋渡し役をつとめ,中日国交回復実現のために汗馬の労をとったのである。

 日本側の訪中「旋風」と相俟って,中国側の方からも訪日の「旋風」を次々と巻き起こした。その中で最も影響力のあったのは,先ず「双王旋風」と「孫平化旋風」を挙げるべきである。これらの「旋風」とは,1971年3月中国卓球代表団の副団長として訪日した王暁雲、同年8月自民党顧問松村謙三氏の葬儀に参列するために訪日した王国権と、1972年7月上海バレエ代表団の団長として訪日した孫平化の3人が,日本で相次いで中日国交回復ムードを盛り上げたことである。日本滞在中,彼ら3人は,それぞれハードスケジュールで日本各地をまわり,中日国交回復問題について,各界の人たちと広汎に接触し,意見の交換を行い,大きな成果をあげた。とくに孫平化氏の大平外相との四回にわたる会談と田中首相との会見により,双方は,国交正常化の時機はすでに成熟したとの一致した認識で,意思の確認ができ,田中首相の正式訪中と中日国交正常化実現のために,最終的に道を開いたのである。

(三)平和友好条約締結に向けた高揚期(1973年−1978年)

 1972年9月の田中首相の訪中と『中日共同声明』の発表により,中日の間で戦争状態の終結を宣言し,国交の正常化を実現させることになった。その後,貿易、海運、漁業、航空等の政府間協定が締結され,両国間の人事と貿易往来のための有利な条件と保証を提供できるようになった。しかし,法的プロセスでいえば,共同声明ではまだ政府間の条約に替ることができず,両国の末長い友好を確かなものにしようとするには,中日平和友好条約の締結をしなければならなかった。そのために,中日平和友好条約の早期締結を求めることは,70年代初期以後の両国民間交流と友好運動の主な目標となったのである。

 

 1、大型交流を行い,友好の種を蒔く。中日国交正常化の実現により,客観的に中日民間交流の外部環境と条件が改善され,両国間の相互往来は急速に増え,且つその範囲も拡大し,方式も多種多様になったのである。「友好の船」、「友好の翼」など大型な交流活動が踵を接し,「友好都市」や「友好公社」が機運に応じて生まれ,いろいろな新しい名前の友好交流団体が次々と現れてきた。これらすべてが立証しているように,中日友好はすでに時代の潮流となり,より一層人々の心の中に深くはいっていったのである。1973年の上海と横浜、天津と神戸間の友好都市締結を発端に,友好都市は両国の間で雨後の竹の子のように次々と結ばれてきた。1984年までにその数はすでに74組に達し,中国と世界各国との間で結んだ友好都市総数(143組)の半数以上を占めるようになった。これは両国の民間交流と協力に新たな重要なルートを開き,関係地方自治体の経済、文化、科学技術の発展を絶えず促進してきたのである。また,1978年10月に北京の近郊にできた「中日友好人民公社」と翌年の5月に西安の郊外で命名された「友好公社」は,日本の友好団体、自治体、政党と企業から物資と設備の援助を受けただけでなく,これらのルートを通して,数多くの中国若い農民たちが日本を研修訪問し,専門知識と技術を覚えて帰国したのである。

 「友好の船」や「友好の翼」のような大型交流方式も,中日国交正常化以後の70年代に現れた新生事物である。その特徴としては,人数が多く,航行中にもいろいろな勉強会や交流会が行われたことである。おおざっぱな統計によると,1979年までに,日本からの「友好の船」はすでに40余回に達し,「友好の翼」は約60回にものぼったのである。このような大型交流の中で最も注目されたのは,1979年の春,答礼の意味で訪日した中日友好協会派遣の「中日友好の船」であった。この廖承志会長を団長とする「中日友好の船」は,中国政府各部門と15の省、直轄市、自治区からの600人で構成され,新中国建国以来規模の最も大きい使節団であった。そして海路往来の歴史的記録をも作りあげた。船は約1ヶ月にわたって10の港に停泊し,史上前例なく日本列島を一周して,6,356キロを航行した。代表団は33の都、道、府、県に立ち寄り,工業、農業、文化教育、都市建設、医療衛生等千に近い項目を見学すると同時に,数多くの各界各層の人たちと交流し,古い友人にも会い,新しい友人をつくった。「中日友好の船」は単に友好の種を蒔いただけでなく,同時に,団員たちは視野を広め,知識を増やし,勤勉で知恵に富んだ日本国民の創造的労働を目にし,日本国民からの中国人民への友好の気持ちを体験することもできたのである。

 

 2、「覇権反対」の正義を唱え,平和条約の締結を促す。中日平和友好条約の締結に関しては,国交正常化時に,双方はすでに意見の一致を見せ,そして『共同声明』にも書き入れた。これは単なる立法上の戦争状態終結のためだけでなく,最も重要なのは,双方が未来に目を向け,両国の世々代々に亙る友好を保証するためでもある。しかし,当時,自民党内に一部反対の声があり,ソ連からも再三圧力をかけられたため,日本側としては,共同声明第七条の「覇権反対条項」を平和友好条約に書き込むことをためらい,異議を唱えることもあった。そのため,交渉が長引き,1978年8月にようやく福田内閣の手で中日平和友好条約の正式調印を完成したのである。この間,両国の民間友好団体は正義を唱え,覇権反対を力説するとともに,運動の主要目標を日本政府に中日平和友好条約早期締結を促すことにおいたのである。

 中日平和友好条約の締結は,中日両国の世々代々にわたる友好のための基礎と保証であり,また両国人民の共通の強い願望でもある。1974年10月15日の藤山愛一郎ら20余名の日本各界人士による平和友好条約締結促進を訴える「国民への呼びかけ」の発表と,12月8日の日中友好協会中央本部主催による「日中平和友好条約の実現を目指す国民集会」の開催などを発端に,日本各地の友好団体と大衆組織は次々と集会や報告会を行い,署名運動を展開して,日本政府に「覇権反対条項」を明記する日中平和友好条約の早期締結を強く要望した。とくに1975年5月12日の日本社会党訪中団と中日友好協会との間で調印した「超大国の覇権主義反対」と「平和友好条約の早期締結」を訴える共同コミュニケの発表と,1978年6月2日の日中友好議員連盟の臨時大会でまとめた「日中平和友好条約の早期締結」を訴える決議の提示からみてもわかるように,中日平和友好条約の締結を希求する国民運動は,ついに日本の政界まで拡大したのである。このような広汎な日本国民と各界の強い訴えの下で,福田首相は潮流に順応し,園田外相の訪中を決断して,1978年8月12日,両国政府の間でついに中日平和友好条約の正式調印にこぎつけたのである。

(四)多様な交流の発展期(1979年−1989年)

 70年代末の中日平和友好条約の効力発効と中国の改革開放政策の実施は,中日民間交流の更なる段階への発展のために,よりよい環境とより有利な条件を造りだした。また,約半年ごとの頻度で行われた両国要人の相互訪問は,中日友好がすでに両国政府の既定国策となったことを側面から反映するとともに,80年代における両国民間交流の全面的発展にも良好な政治的基礎を打ち固め,未曾有の盛況をもたらした。

 

 1、友好が両国の国策となり,「三つの会」が双方の意思疎通に利する。80年代における中日民間交流の全面的発展は,両国の政府がともに中日友好を基本的国策にしたからである。1978年,「不老長寿の薬を捜し求める」ことを訪日の目的の一つとしたケ小平副総理は,中日友好を「中日関係の大局」であると言明した。1979年12月,訪中の大平首相と華国鋒総理との間で,中日両国は「恒久的平和友好関係を堅持し発展しなければならない」との意思確認ができた。また,1980年5月,訪日の華国鋒総理と大平首相との間で,「国際情勢がどう変わろうが,中日両国人民が世々代々にわたって友好的に付き合っていく方針は,変わらない」との意思再確認ができた。1982年6月,訪日の趙紫陽総理から「平和友好,平等互恵,長期安定」との中日関係三原則を提案した。また同年9月,訪中した鈴木首相から中日「両国人民に深く根付いた信頼関係」の構築を提案された。1983年3月,訪中の中曽根首相は,「日中両国が良好で、安定的な関係を発展させることは,日本外交の重要な柱であり」,「中国と協力することは,日本の基本的国策である」と強調した。また,同年11月訪日の胡燿邦総書記との間で,中日関係三原則の上に,「相互信頼」との内容を加えることで合意に達し,合わせて中日関係を指導する四原則にした。1988年8月訪中の竹下首相は,「中国との良好関係を維持、発展することは,わが国外交の重要な柱の一つである」と指摘した。1989年4月訪日の李鵬総理と竹下首相は,中日両国は「今後,友好関係をより一層発展し」,「技術、投資等の分野において,経済協力関係をひきつづき拡大させていく」ことを約束した。これら中日双方の指導者たちの成果に富んだ相互訪問と一致した政治的見解は,国交正常化以来の両国関係の発展状況に関する経験の総括であり,中日平和友好条約の内容を充実し、発展させるものであった。これは民間交流を含む両国友好関係の全面的発展を推進するうえで,重要な意義をもち,大きな役割を果たしたのである。

 中日の民間友好は,歴史が長く、基礎が充実し、層が厚く、交流が頻繁であるため,終始,両国関係の順調な発展を保障する強固な基盤であり,原動力であった。中日国交回復後,両国の政府間で,中日閣僚会議と外交当局間事務レベル協議等の定期的会議制度ができたが,しかし,民間においては,まだこのような定期的対話制度がなかったのである。情勢発展の必要と長年中日友好活動に尽力した一部友好人士の提議に基づき,80年代の初期,両国の民間では「中日民間人会議」、「中日友好交流会議」、「中日友好21世紀委員会」という三つの定期交流ルートが,相前後設置された。1982年10月,第一回中日民間人会議は東京で開かれた。その主旨は,主に両国関係と国際情勢をめぐる諸問題について協議し,民間の角度から,中日両国の長期的、安定した友好関係の発展を推進するために努力することであった。中日友好交流会議の第一回会議は,1983年の8月に北京で行われたが,その主な目的は,両国友好協会の間で,友好活動をいかに展開するかについて経験の総括と交流を行い,当面する重要課題ととるべき措置などを討論するために,場所を設けることにあった。中日友好21世紀委員会は,1984年3月訪中の中曽根首相と中国指導者との間の合意に基づいて設置されたもので,メンバーは,両国の老、壮、青の代表を含む著名な政界、財界人士と学者から構成されている。その任務としては,『中日共同声明』、『中日平和友好条約』と『中日関係四原則』の精神に基づいて,政治、経済、文化、科学技術等の幅広い視点から,長期的、安定した中日善隣友好関係を発展させる方途を探るとともに,両国の政府に有益な発展構想と提案を提出し,21世紀に向けての更なる友好的な中日関係の開拓に努めることであった。この委員会は,政府間の閣僚会議とは異なり,また,純民間人士から構成された他の二つの会議とも違って,実に半官半民の性格をもつものである。以上述べた「三つの会」の設置は,中日両国首脳と人民が歴史と未来に対して,ともに勘案した結晶であり,世々代々にわたって友好的に付き合っていこうとする両国人民の強い願望を集中的に反映し,相互の意思疎通と誤解の除去に非常に有利なものであった。そのため,常に中日友好事業の絶え間ない発展を促してきたのである。

 

 2、交流が多様化し,往来が活況を呈する。両国首脳の中日友好に対する高度な重視と,民間の「三つの会」という定期会合制度の確立により,80年代の中日間の民間交流は,いままでの伝統的な交流様式を維持しつつ,また新たな様式と発展をみせた。かつてない多ルート、多分野、多様式、各界各層に及ぶ交流の局面が現れてきた。その主な特徴は,次のとおりである。

 第一,更なる大型化であること。例えば,60年代の中日青年友好大交歓会と70年代から始まった「友好の船」、「友好の翼」につづいて,1984年秋,胡燿邦総書記の招待で3000名の日本各界の青年が訪中した。彼らは中国各地の青年たちといままでより更なる規模の大きい交歓活動を行い,中日友好の新たな高まりを盛り上げ,中日交流史上空前の壮挙となったのである。

 第二,政党化であること。80年代に入ってから,日本の各政党は相次いで中国共産党と交流関係を結んだ。例えば,竹下首相の提案に基づいて,1989年から日本の自民党と中国共産党との間で実施した『長城計画』という日中青少年交流活動は,その一例である。この計画により,自民党は毎年10名の若手国会議員と200名ぐらいの青少年を訪中させ,中国の青年政治家たちと交流を行ってきた。90年代の初め,自民党が分裂した後も、自由党はそれを受け継いで,ひきつづき行ってきた。

 第三,低年齢化であること。中日間の人事往来の年齢構造は,だんだん低年齢化し,青少年の占める比重は,日増しに上昇してきた。例えば,日中青少年旅行財団のような青少年交流に従事する機構が相次いで設立され,学校の休暇期間を利用して,次々と青少年訪中団を派遣したのである。1988年12月の『第六次日中青少年学生交流大会』の時だけでも,1200名の日本青少年を中国に送り出した。

 第四,業種化であること。70年代の「友好都市」、「友好省県」の関係締結が始まって以来,両国地方自治体間交流の発展の勢いは衰えず,1987年までに,その数はすでに100組を突破した。2000年の時にはさらに増えて,200余組にも達したのである。それと同時に,業種別間の交流もまた多種多様に行われた。例えば,「友好学校」、「友好港」、「友好新聞社」などが次々と現れて,科学研究、スポーツ、教育、文化、医療等の同業者間の交流は,大変活発に行われていた。

 第五,「草の根」化であること。中日関係は日増しに緊密になり,相互交流もますます頻繁になった。それに伴ない,このような「草の根」の交流と往来の活動も,年々増えてきた。例えば,「関西日中朋友会」、「名古屋日中朋友会」、「中国に日本語の教材を送る会」、「日中友好文通の会」など,あまり名の知られていない市民たちの自発的大衆団体は,社会的著名人の参加もなければ,企業からの財政支援もなく,すべて会員たちのバザーや募金活動で,中国との交流活動を支えてきたのである。もし,中日間の個人的,あるいは家庭式な交流と往来の例を挙げるなら,その数はもっと多くて,枚挙にいとまないのである。

 第六,文化交流の多彩化であること。1979年の中日文化交流協定の調印にともない,80年代の中日文化交流の園地には,茶道、華道、俳句など三株の美しい花が新たに増えた。それから,鑑真和尚坐像の揚州への「里帰り」及びその記念堂の落成,西安の空海記念堂と記念碑、阿倍仲麻呂の記念碑の建立などは,古代の中日友好の代表的な偉大な人物に対する謳歌と偲びだけでなく,現代人や後世人に対する鞭撻と励ましでもある。また,1978年に,初めて中日両国の間で留学生の相互派遣が実現されて以来,留学生、研修生、視察訪問の専門家の相互派遣は,たえまなく続いている。とくに80年代中頃から,中国からの日本への自費留学生は急増し,中日の間で新たな留学ブームが到来したのである。

 第七,経済貿易往来の複合化であること。1978年の中日長期貿易協定と1982年の中日科学技術協力協定の調印により,中日の貿易関係は,今までの単品輸出入交易から経済、科学技術にわたる全面的協力の方向へと,より一層発展するようになった。軽工業、紡織製品の来料加工(原料を持ち込み,中国で加工すること)から石油、石炭、非鉄金属等の分野での大規模な共同開発まで,単品の組み立て貿易から総合的な長期補償貿易まで,企業の技術改造から電力工業、港湾、交通運輸、農業等の分野における建設事業まで,各種の具体的な支払い方式から借款の受け入れ、合弁企業、労務輸出、円債券発行まで等々,中日間の経済協力は全方位的に展開し,貿易額も急速に増大したのである。日本側の通関統計によると,中日間の輸出入貿易総額は,すでに1979年の66.53億ドルから1988年の193.28億ドルまで約3倍に急伸した。

(五)成熟に向かう展開期(1990年−2000年)

 90年代に入って,東西冷戦が終息し,中日関係も新たな歴史的発展期を迎えるようになった。中日国交回復20周年の1992年,江沢民総書記の訪日と天皇明仁の訪中により,中日関係の新しい一頁が開かれた。また,中日平和友好条約締結20周年にあたる1998年,江沢民主席は国家元首として,初めて歴史的な日本訪問を行った。小渕首相との間で『中日共同宣言』を発表したことにより,中日両国を「平和と発展のための友好協力パートナーシップ構築関係」に導いた。このような背景の下で,中日の民間交流と往来も,ますます友好的に実務に励み,平等互利、協力互恵という地味な時代に入り,成熟に向かう両国関係の発展に大きな役割を果たしてきたのである。

 1、風浪が起こっても,友好の信念は動揺せず。90年代の初め,冷戦の終息とソ連の解体にともない,日米摩擦の激しさが増える一方であったが,中日両国の間では,政治関係が基本的に良好で,経済協力が順調に進み,貿易額が猛スピードで急伸してきた。1989年の「6.4」(いわゆる天安門事件)風波の後,米国をはじめとする西側諸国は,いわゆる「人権」問題を口実にして中国を非難し,対中「制裁」措置を取った。これに対して,日本政府は消極的な態度で対応しながらも,対中円借款を凍結し,日本国民の北京への渡航自粛勧告をだしたため,中日関係のより一層の発展に暗い影がさした。しかし,中日友好の大局と両国人民の長期利益の観点から,政界を含む日本各界の有識者たちと日中友好団体は,日本政府に対し,国民の北京渡航自粛勧告の早期解除と対中円借款の早期回復を強く要求し,それにたゆまない努力を払ってきた。北京はまだ戒厳令下におかれていたにもかかわらず,自民党の議員で、中国研究会の会長を務める大石正光氏は率先して北京を訪問し,いち早く「中国で起こった事件に,理解できる」と意思を表明した。以来,自民党内の実力者や元老を含む政界の人たちは続々と意見を発表して,「日中関係は日米関係と違うので,日本はアメリカに追随せず,独自の政策を取り」,「対中円借款の回復を決断すべきである」と強調した。それと相前後して,50社の日本旅行社から80余名で構成された中国旅行観光視察団、伊東正義会長を団長とする超党派日中友好議員連盟代表団、森田堯丸理事長を団長とする日本国際貿易促進協会代表団、清水正夫理事長を団長とする日中友好協会代表団等々,次々と訪中して,「この事件は,あくまでも中国の内政である」と表明し,日本政府の対中「制裁」措置の早期撤廃を促した。それにより,日本政府は,ほかの西側諸国と一線を画し,1989年9月25日に,率先して日本国民の北京への渡航自粛勧告を解除した。そして,翌年の7月に,第三次対中円借款の回復を発表して,中日関係を再び正常な発展軌道に乗せるようになったのである。対中政策の面において,日本の朝野あげてこのように歩調が揃ったことは,中日友好がすでに広汎な日本国民の共通認識になったことを立証している。そして両国の民間交流は成熟に向かいつつあることを立証したのである。

 2、往来が実務を講じ,互利で発展を謀る。90年代における中日民間交流がますます成熟に向かった主な特徴は,次の四点をあげることができる。

 その一,友好交流の内容がより具体的で、着実なものである。90年代を振り返って,中日交流の友好活動はもはや形式だけに止まらず,友好交流を行うとともに,砂漠の退治、植樹緑化、遺跡の修復、貧困と教育の扶助など,現実的意義のある活動にも参加するようになった。そして,その内容はより豊富で,具体的で,着実なものになっていたのである。横浜日中友好協会を例にしてみてもわかるように,彼らはつねに訪中団の派遣と中国からの訪日団の受け入れにあたる以外に,中国語講座、太極拳講座、講演会、映画会、詩吟会、文芸の夕べ、中国留学生との交流会、短期留学生の中国への派遣等の活動をも行うことによって,さらに両国国民間の「心と心」の理解を増進させ,互いに友情を深め合っていたのである。とくに強調しなければならないことだが,彼らは何の財源もない状況下で,バザーと募金活動だけで,1991年から2000年までの間で,すでに中国の地震や洪水の被災区、貧困地域に,相次いで約500万円の義援金、文教費、校舎建設費などを贈って,中国の災害復旧、貧困扶助と教育事業の発展に,それなりの貢献をしていた。これは90年代における中日民間友好交流の小さな一縮図にすぎないが,しかし,彼らのこのような義挙は,功績は当代にあって,実利は後世に及ぶというものであり,彼らのこのようなすばらしい精神は,すでに中国の子供たちの心の中に友情の種を蒔き,中日両国人民の世々代々にわたる友好のために強固な基礎を打ち固めたのである。

 その二,人事往来が急激に増加した。中日関係がますます緊密化するにつれて,90年代における両国間の人事往来も日増しに増加した。中国を訪れる外国人の中で,日本人はずっと第一位を占め,中国最大のお客さんとなっていた。統計によると,観光で中国を訪れる日本人は,1994年一年ですでに100万人を超え,第二位のアメリカ(46.98万人)をはるかにリードしていた。1996年には,その数はさらに増え,150万人の大台を突破して,154.88万人に達したのである。多数の日本人の訪中は,両国人民間の相互理解の増進に有利なだけでなく,中国の外貨獲得のための主な財源ともなっていた。とくに,1998年に訪日中の江沢民国家主席と日本政府との間で調印した5年間で15,000人の交流目標を実現させる青少年交流協定により,中日両国の人事往来はさらに著しい増加をみせた。その中で最も人の目を引いたのは,2000年5月の日中友好団体と各界の代表たち5,000人から構成された日本民間友好使節団の訪中であった。この世紀交替の年にあたり,このように規模が大きく、広汎な各界を代表する日本使節団の訪中は,江沢民など中国政府要人たちも重視し,親切に会見した。そして,北京の人民大会堂で,中国各界の代表たちと厳かな歓迎の交歓大会が行われて,中日友好の新たな高まりを21世紀に持ち込んだのである。

 その三、文化技術の交流成果が著しい。技術交流の面において,1992年までに,日本国際協力事業団ルートだけで日本に送られた中国研修生の数は,すでに4,300人にのぼり,日本からも2,400名の専門家が中国に派遣された。例えば,天津市では,鳥居幸雄神戸港湾局長を最高顧問とする専門家顧問団を招請して,天津港の船舶混雑の解決に目覚しい成果を収めた。中国の農業関係部門では,日本の水稲専門家原正市氏を招いて,苗を早く育成し,疎ら植えの栽培技術を伝授してもらい,中国北方の寒い地域での水稲栽培のできない歴史に終止符を打った。また,中国のマルチ栽培研究会では,日本人専門家の石本正一氏を名誉顧問に招聘して,中国でのマルチング栽培技術を速やかに普及させ,1986年までにその面積を世界一位に拡大させた。1985年をとっても,農業純増産額は28億ドルに達したのである。文化教育の面においては,日本留学の中国人は急速に増えて,国費留学生と自費留学生が競い合って増加する局面が形成された。日本文部省の統計によると,1998年に日本の大学で勉強している中国大陸からの留学生数は,22,323人に達し,在日外国留学生総数(51,047人)の44%を占め,トップに立っていたのである。1993年まで,すでに8,000余名の中国人留学生は学業を終えて帰国し,中国の科学研究、教育、科学技術等の分野で中堅となって,活躍しているのである。

 その四、経済貿易協力が質量とも飛躍的な発展を見せた。1992年のケ小平「南巡」講話の発表と中国改革開放テンポの加速,及び中日長期貿易協定の更新と中日投資促進機構の設置などにより,90年代における中日間経済貿易協力の再拡大の可能性が生まれた。とくに中国経済の持続的な高度成長のため,総合的国力と対日輸出能力が増強されたが,同時に,円の値上がりと日本経済の戦略的転換により,日本国内における過剰資金と生産コストの高い企業は,海外への移転をはじめた。中国はこのチャンスを適時に掴み,優遇政策を提供して,日本企業の中国への投資を誘致した。日本企業も中国への投資増加を通じて,対中輸出を促進した。このようにして,両国間でそれぞれの長所でもって短所を補い合い,互いに利益を得るという良好な循環態勢が形成されたため,中日民間の経済貿易協力は質量とも飛躍的な発展をみることができるようになった。中日間の貿易額は,1989年の146.63億ドルから2000年の831.70億ドルに飛躍し,4.67倍も増加した。そのうち,日本の対中技術貿易も新たに増えた。1990年から1999年までの間,中国は日本から合わせて5,280項目の技術設備を導入し,その累計金額は163.22億ドルまで上昇した。そして,中日間の輸出入品目構造の調整にともない,長きにわたる両国間貿易の不均衡問題も基本的に解決された。日本の対中直接投資において,1990年から2000年までの累計実行金額はすでに253.1億ドルに達し,平均して毎年24.95%のスピードで増え,目覚しい躍進を遂げた。また,直接投資の項目もこれまで一般製造業に偏重していたが,最近ではIT産業を含むハイテク分野に逐次に転換し始めたのである。総じていえば,両国間貿易の面では,日本はすでに連続8年間,対中貿易の最大パートナー国の地位を維持してきたが,中国も連続7年間,対日貿易第二位の相手国を保ちつづけてきた。その輸出入製品の構造の面からみると,両国間では,すでに垂直分業から水平分業へと発展する局面が形成されつつあった。そして,中国の海外からの外資と技術設備導入の面でも,日本はずっと上位にあったのである。中日民間の経済貿易協力は,ますます合理的で成熟に向かいつつ,巨大な潜在力と洋々たる前途をもっているのである。

(作者は中国社会科学院日本研究所副所長)


 
 
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