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面識の間柄からよい友人に
発信時間: 2009-12-15 | チャイナネット

稲垣喬方さんとは面識がある程度だった。チャイナネットの同僚が以前、梅蘭芳に関する特集のために、歌舞伎座で舞台美術を担当していた稲垣さんを取材した。それがきっかけで稲垣さんは北京に来た時にチャイナネットの事務所を訪れたことがある。

今回、東京にいる機会を利用して稲垣さんの家を訪ねることにした。そして連絡するとすぐに「大歓迎」だと答えてくれ、住所の詳しい地図を郵送してくれた。

 

吉祥寺行きの電車の中でもう一度、稲垣さんの資料を読む。中日文化の交流でよく知られている稲垣さんは、1930年に東京で生まれ、11歳の時に外交官の父と書家で歌人の母と一緒に北京で6年間滞在。現地の小学校と中学校に通い、戦後、日本に引き揚げてからは舞台美術の勉強を始めた。稲垣さんは母の影響で1日も北京を忘れた日はなかったという。

1955年に舞台美術の一員として、市川猿之助の歌舞伎訪中公演に参加。翌年の梅蘭芳訪日公演の際もスタッフとして各地を巡回する。そして梅蘭芳をはじめ、通訳や一緒に仕事をしていた多くの中国人と知り合い、数十年間にわたって友情の種を蒔いた。

1973年に北京を訪れた稲垣さんは、これから著しく発展していくだろう中国の発展過程を何らかの形で残しておきたいと思い、新聞に掲載されている中国関連の記事を収集し始めた。36年間でスクラップブックは115冊。そして今年の春、その資料を中国社会科学院日本研究所に贈呈した。「収集はこれからも続けていく」と稲垣さんは言う。

稲垣さんは写真集『山里残影』を出版しているが、これは30年にわたって日本の伝統的な建築を撮影し、近代化の過程で取り壊されていく日本の古き良き民家の歴史を記録したものだ。そして今は、日本と同じ道を歩んでいる中国に目を移し、中国の昔の姿を留めている広西チワン族自治区、江西省、安徽省、湖南省に行って撮影し、2冊目の写真集の制作に取り組んでいる。

 

初めて日本に来た私が、初めて日本人の家を訪ねる・・・。それに様々な分野で活躍してきた人だと思うと、緊張して電車を乗り過ごしてしまった。

地図だけでは心配だと、駅に迎えに来てくれていた稲垣さんのニコニコした優しい顔を見ると、何を話せばいいか日本語は大丈夫だろうかと心配していた私も気持ちが少し落ち着いた。



稲垣さんの家は築80年余りの旧式の住宅だった。塀から枝が伸びたモクセイはちょうど満開で、周りの隅々までその香りが漂っている。門を入ると、玄関まで延びた道には石が敷かれ、空に高くそびえた数本の古い松、一面に緑のコケが生えた黒い石、いずれもこの家の長い歴史を語っているように見えた。この静寂な庭にいると、騒がしい東京がまるで別世界のようだ。

奥さんは笑顔で迎え出てくれ、用意していたお茶やお菓子などをどんどん出してくれた。応接間のテーブルには、書家で歌人の母である稲垣黄鶴さんの作品『北京恋』や、今も大事に保存している市川猿之助の訪中公演の様子を報道した中国の新聞、梅蘭芳との記念写真、新しく作ったスクラップブック、広西チワン族自治区で撮影した写真など、たくさんの資料が用意されていて、小雨の音が聞こえる午後、稲垣さんは私の様々な質問に答えながら、自分の80余年の人生の物語を語った。

稲垣さんご夫婦

この訪問をきっかけに、メールや電話で稲垣さんと連絡を取り合うようになり、私が東京で過ごしやすいようにと「はとバス」のパンフレットや地下鉄マップを郵送してくれたり、湖南省から帰って来ると、毛沢東遺品館の資料を届けてくれたりするなど、常に私のことを気にかけてくれた。

帰国してから送ったお礼のメールに返事が来た。「妻はよい友人が出来たと喜んでいます。こうして実際に日中交流ができるのは大変素晴らしい事で、お互いに好い所を交流し合い、次世代に更なる花を咲かせましょう」

「チャイナネット」 2009年12月15日

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