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緑川英子女史――中国の大地に青春と熱血をそそいだ

本名は古川照子。日本帝国主義の中国侵略に反対するため、幾重もの障害を突き破って、中国人民と共に戦うために中国に来た。

1912年3月7日、緑川英子女史は日本の山梨県にある土木技師の家庭に生まれた。1929年に東京府立第三高等女子学校を卒業し、その後は奈良女子高等師範学校に入学した。

1935年に、緑川英子女史は東京にいた中国留学生の劉仁さんと知り合い、1936年秋に、家族の反対を顧みずに劉仁さんと結婚式を挙げた。

1937年4月、育てくれた両親や愛する故郷をあとにし、友人の協力のもとで、中国にきた。

日本軍が上海に侵入したあと、彼女は野蛮な侵略者に対するこの上ない憤慨の気持ちをこめて、ペンを銃として日本ファシズムの侵略行為を暴いた。

1938年6月末、当時の抗日の中心地、武漢にやってきた。著名な文化人の郭沫若氏の推薦のもとで、彼女は国民党中央宣伝部国際宣伝処の中央ラジオ放送局で、日本語のアナウンサーとなり、日本の兵士向けの放送の任務に取り組んだ。毎日マイクの前に流暢な日本語でアナウンスした。緑川英子女史の日本向けの放送は非常に効果があり、人びとを感動させる言葉は、日本ファシズムに強制的に中国に送られて入隊させられた日本下層の兵士たちの心を揺さぶった。彼女の放送は、敵を震えあがらせ、士気を動揺させることになった。

1940年7月、中国在住日本人反戦同盟本部が創立大会を開いた。彼女は大会に出席し、本部の指導メンバーに選ばれた。

1947年1月10日、35歳の緑川英子女史は病死し、愛する妻を失った夫の劉仁さんは深く悲しみ、病気にかかって、緑川英子さんが亡くなった100日後に、劉仁さんも病気で亡くなった。緑川英子夫妻の遺体は黒竜江省佳木斯(チャムス)市烈士陵園に埋葬された。

周恩来総理は緑川英子女史を「日本人民の誠実な娘、真の愛国者、中国人民の忠実な戦友」とたたえた。

「チャイナネット」資料

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