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日本ファシズム滅亡への道を辿る

1943年から独、伊、日3カ国のファシストは相前後してヨーロッパ、北アフリカ、太平洋戦線で手ひどい打撃を受けた。連合国軍はまず北アフリカで百万人に近い独伊ファシストを殲滅する大勝利を得て、独伊両国軍は完全に北アフリ力から追い出された。これに引き続き、ソ連赤軍はスターリングラードにおける4カ月半におよぶ攻防戦において決定的な勝利を勝ち取り、33万のドイツ軍を殲滅した。その後、ソ連軍は連続的な攻勢をかけ、わずか3カ月間で50万にのぼる敵を殲滅した。連合国軍はこの年の夏、それぞれ南ヨーロッパと太平洋において進撃を開始し、7月、イタリアに進攻し、9月8日、イタリアは無条件降伏を宣言、同時に太平洋上において、日本海軍に甚大な損害を与え、太平洋海戦の主導権を掌握した。中国戦線では、中米連合空軍もこの時点で、基本的に制空権を掌握し、ただ陸上作戦を行なう日本軍に大きな打撃を与えたばかりでなく、さらに中国大陸東南部沿海に新しく建設された空軍基地に進駐し、日本の本土及びその海上輸送コースに対しても巨大な脅威が構成された。11月26日、中米空軍混合大隊ははじめて大陸の沿海基地から出発して台湾の新竹空港を爆撃し、日本当局にきわめて強い刺激を与えた。なぜならば中、米空軍がすでに中国大陸から出発して、直接日本本土を爆撃できることを意味しているからであり、日本にとっては大いなる危機であったのである。

太平洋戦線での数々の失敗に直面して、日本はさらに兵力不足の感を深くした。この時、日本は中国戦線から兵力を引き抜いて太平洋戦線に増援しようと決意したが、結局中国大陸を日本ファシズムの生命線とみなしたため、1943年の末までは日本陸軍の50%前後の兵力が依然として中国戦区の奥深く留まっていた。それだけではなく、海上においても日本本土と東南アジアなどの占領区とを連結する海上交通線の維持が困難になり、その上、日本本土の安全も中、米空軍の脅威にさらされており、日本軍大本営はやむを得ず大量の兵力を集中して大陸交通線の打開作戦を行ない、これをもって、日本――朝鮮――満州――華北――華中――華南――ベトナム――タイ――シンガポールを貫く大陸交通線をつくり、同時に、東南沿海にある中国とアメリカの空軍基地を打ち破り、中、米空軍の直接日本本土爆撃を不可能にしようと図ったのである。

日本の大陸交通線打開作戦は1944年4月から始まり、1945年1月の終了までに、前後9カ月に近い期間継続し、動員兵力は50万以上、作戦総距離は2400キロに達している。日本ファシズムは太平洋戦線において非常にきびしく切迫しており、中国においてもまた空中援護を思うように受けられず、燃料、弾薬、其他の補給物資の供給もとても困難な状況の中で、危険を冒してこのような大規模な作戦行動をおこしたのは、まったく情勢の切迫による一か八か勝負に出た結果であった。この時、日本の中国大陸(東北地区を含まない)における総兵力は62万人であったので、この進攻の発動のために、大量に占領区の部隊を引き抜くほかはなかった。敵後方にあった中国共産党指導下の八路軍と新四軍はこの機をとらえ、大挙して進攻作戦を展開し、中国戦線における局部的な反攻のプロローグとなった。1944年の秋には、日本軍が華北で占領した400近くの県のうち、わずか1.4%の県だけが完全に支配下にあるだけで、67.1%の県は県都しか支配しておらず、其他31.5%の県は完全に支配権を喪失し、中国共産党が敵後方戦線で勝ち取った勝利に圧迫されて、日本軍はやむなく一部の主力を続々と撤収して守備にまわすようになっていた。

日本軍の大陸交通線の打開作戦は初期打開においては順調に進展していた。1944年の4~5月の河南省に対する進攻は、中国守備軍に大きな損失をこうむらせた。しかし、河南戦役後、もとの華北駐屯軍の主力は圧迫されて撤収し、新しい占領区にもまたかなりの守備兵力が必要であったので、5月の末にはじまった湖南戦役における日本軍は中国守備軍と比較してあまり優位を占めているとは言えず、作戦の進展は非常に困難であった。40余日におよんだ衡陽の攻防戦において 1.7万人の中国守備軍は、中国軍の城塞固守の最長記録をつくり、一回の戦役での双方の死傷者人数比率の最高記録をも更新した。日本側の公表統計数字だけによると、7~8月にかけて衡陽を攻撃した日本軍の死傷者は1.2万人であるが、衡陽周辺作戦における死傷者を加えれば、日本軍の死傷者総数は1.9万人以上に達しており、中国側の死傷人数は日本軍よりやや少なく、攻守双方の死傷者の比率が初めて逆転している。これで、日本軍の中国戦線における作戦能力がすでに低下していることが明白になった。

さらに明確に中日両国軍隊の戦闘力が逆転しはじめたのを証明したのは、ビルマ戦役である。1943年12月末から1944年の8月にかけてアメリカのスティルウェル将軍が自ら中国のインド駐屯軍を指揮して雲南――ビルマ公路を開通させるため、ビルマ北部の作戦を行なった。中国、アメリカ両国が相談して決めた作戦計画に基づいて、中国のインド駐屯軍はビルマ北部のホーカン川谷、モガウン川谷に連続攻撃を加えて占領し、その後ビルマ北部の重要都市ミチーナを長躯襲撃し、2カ月半の激戦を経て、この戦略的要衝を攻め落とした。これ以降、中国軍はミチーナを基地とし、兵員を補充し、部隊を訓練し、編制替えして新一軍、新六軍となり、総兵力は5個師団に拡大し、10月の中旬アメリカの志願突撃隊、英印部隊などと協力してバーモ、ナムカンおよび雲南――ビルマ公路にある要害の地と呼ばれたメェシューに猛攻をかけ、1945年1月にメェシューを攻め落とし、続いて3月にはまた中国、インド、タイ、ベトナム4カ国を連接する交通中枢ラーショウを攻略し、連合国軍のビルマにおける全面反攻作戦のためにしっかりした基礎をきずきあげた。それと同時に、中国遠征軍もビルマ北部の作戦と呼応するため、怒江を強行渡河し、軍を分けて二方向から雲南西部の日本軍に対して進撃し、1944年9月、戦略的要衝である騰衝と龍陵を占領し、その後、芒市を奪取し、畹町を攻め落とし、1945年1月までに雲南省内にいた日本軍のすべてを駆逐した。この作戦は、中、米、英3カ国軍初めの大規模な対日共同作戦であった。中国軍はこの作戦中、英印軍救援作戦においても、潜入奇襲作戦、都市の攻撃、防衛戦のいずれにおいても、勇敢で戦いにたけていることを証明した。なぜかと言えば、この作戦はただ中国西南の国際通路を取り戻しただけではなく、日本軍4個師団のそれぞれの一部を殲滅し、日本軍にビルマ北部と雲南だけで数万人の兵力を損耗させたからである。

中国軍は、日本軍が行なった大陸交通線の打開作戦の攻勢時に不必要に巨大な損失を蒙ったが、しかし日本軍は多くの新しい土地を占領したため、兵力面では一層手詰りの状態になっていた。さらに太平洋戦線における連合国軍の勝利による力強い牽制を得て、1945年に入ってからの日本軍はすでに最後のあがきにすぎなくなっていた。正面戦線においては、日本軍が湖北省の老河口と湖南省の芷江にある中・米空軍基地を破壊するためにおこした攻撃は初期の目的を達することができず、その占領区内における八路軍に対する報復作戦も以前の效果を失なった。中国軍が戦えば戦うほど強くなるのにひきかえ、日本ファシズムは四面楚歌に落ち入っており、中国人民抗日戦争の最終的勝利は目前に迫っていた。

「チャイナネット」2005/04/26

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