1945年の敗戦まで、大久野島は16年間ずっと日本陸軍の毒ガス生産基地であり続けた。ここで製造された毒ガスは九州の曽根へ運ばれ、そこで迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、戦場へ送られた。1937年に日本軍が全面的な中国侵略戦争を発動すると、島内の毒ガス生産量は急増した。びらん性、刺激性、窒息性など様々な種類の毒物を次々製造し、品種としてはイペリットガス、ルイサイトガス、青酸ガス、催涙ガス、クシャミガスの5種類を、ピーク時には7000人が島内で働き、年間生産量は最高1200トンに達した。ある統計によると、大久野島の毒ガス生産総量は6616トン、そのうち半分が国外に持ち出されて戦争に使用され、イペリットガスやルイサイトガス等の致死性毒物は大量に中国へ運ばれた。
山内先生は毒ガス製造跡数カ所へ我々を案内した。島全体に電力を供給していた発電所用地は廃墟となり、外壁はツタに覆われ、ガラスのない壁面には旅行者の落書きが数多く残されていた。島の至るところにあった製造現場は跡形もなくなり、今は空き地が残されるのみで、各地に散在する閉ざされた防空ごうから、かすかに当時の様子を想像することしかできない。山内先生は、当時数十カ所あった施設は主に海岸沿いに設置されたと話し、「現在空き地となっているのが当時工場があった場所だ」と教えてくれた。
島全体が環境省の管理下に置かれているため、閉ざされた防空ごうに勝手に入ることはできず、中にどれほどの毒ガス缶が残されているのかは、誰にも分からない。しかし、当地の「毒ガス資料館」が、「毒ガス島」の歴史をかなり系統立てて紹介している。この資料館は1980年代に、毒ガス被害者と平和愛好家の共同出資で設立されたもので、毎年4万人以上が来館し、「歴史を学ぶ平和の場所」となっている。
資料館内の二つの文献に、日本軍が毒ガス戦を発動したという史実が記載されている。その一つが「中国使用武器例教材」だが、これは軍事学校で使用された軍国主義教材で、防毒、毒ガス使用、毒性識別法を詳しく述べると同時に、中国河北、山西等で日本軍が発動した毒ガス戦が列挙されている。もう一つはアメリカが公開した資料で、日本軍総参謀長の載仁親王が1939年5月13日に北支那方面軍司令官の杉山元に発した密令だ。山西地区で「黄剤(びらん性毒ガス)等の特殊資材」を使い、「その作戦上の価値を研究」するよう命じ、実施過程では「事実の秘匿に関しては万般の処置」を講じ、特に第三国人に対して「秘匿すること」を求めた。1938年4月11日には、載仁親王は山西等を侵略する日本軍に対し、迫撃砲弾に装填された「赤筒、赤弾(刺激性毒ガス)」を使用し、「毒ガス使用の事実は厳格に秘匿し、痕跡を残さない」よう指示している。統計によると、第二次世界大戦中、日本は合計2000回にのぼる毒ガス戦を発動し、10万人以上の死者を出した。
記者は島内にある当時の毒ガス貯蔵施設を七、八カ所見学した。最も大きいのが長浦貯蔵庫で、かつては100トンの大型貯蔵缶が6本置かれていた。環境省による表示板には、「1929年から終戦まで、旧陸軍は本島で秘密裏に毒ガスを製造した。主要製品はイペリットガスとルイサイトガス、ともに皮膚がただれるびらん性毒ガスで、年間生産量は1200トンに達した」と書かれている。調査によると、第二次世界大戦終結後、大久野島とその周辺地域には約3240トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは「世界中の人間を殺戮できる量」に相当する。戦後、米軍が指揮をとり、一年間かけて海洋投棄、焼却、島内埋没により処理された。毒ガス処理に関わった帝人三原工場の社史によると、海洋投棄されたのは毒液1845トン、毒液缶7447缶、催涙剤およびクシャミ剤1万缶余り、毒ガス弾13272個。このほか、焼却や島内埋没された毒ガス弾は65万個以上に達した。
「人民網日本版」2005年8月4日