梅津美治郎(1882-1949年)
大分県生まれ。旧関東軍司令官。1902年に陸軍士官学校第15期卒業、1910年に陸軍大学を卒業。1928年に陸軍省軍務局軍事課課長に就任し、1930年に少将に昇進。1931年に参謀本部総務部の部長に就任し、1934年に中将に昇進、「シナ」駐屯軍司令官となる。1935年に一手に「何梅協定」をでっち上げ、同年第2師団師団長となる。1936年に陸軍省次官に就任し、中国を侵略する戦争の拡大を直接指揮した。1939年に関東軍司令官となり、1940年に大将に昇進し、1944年に参謀総長となった。日本降伏の時、重光葵とともにアメリカの軍艦ミズーリ号で降伏文書に署名。1948年極東国際軍事法廷によってA級戦犯として無期懲役の判決を受け、翌年獄中で病死。
「チャイナネット」資料