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70年間中国で罪を償う旧日本軍の脱走兵
発信時間: 2009-06-24 | チャイナネット

戦争が終わってから30年後の1976年、中国と日本は国交正常化を果たし、この年に山崎さんは40年ぶりに故郷に帰っている。身内は山崎さんのために日本の病院で月給30万円の仕事を探してくれたが、「中国で暮らした時間は日本にいた時間よりずっと長い。どうしても中国に戻りたい」と、山崎さんはその好意を断った。

こうして70歳を前にまた済南市に戻ってきた山崎さんだが、家族のために持ち帰ったのは、他人がいらなくなった14インチのカラーテレビだけ。日本で買った心電図計や多くの科学技術に関する本は、済南市の図書館と病院に寄贈した。

 

罪を償うことは中国の人を助けること

済南市と和歌山市が1983年から取り組み始めた姉妹都市の締結に、身銭を切って頻繁に2つの都市を往復したのが山崎さんだ。この締結成功のために山崎さんは、当時首相だった中曽根康弘氏にも手紙を書き、首相からは「大道無門」と書かれた書を送られたこともあるという。

山崎さんがメディアに注目され始めたのはその時からで、30年間、口を閉ざしていた山崎さんは少しずつ過去のことを語り始めた。

「日本はかつて中国の国民にあまりに多くの災難をもたらした。私は全力を尽くしてこの罪を償いたい。罪を償うのはできるだけ中国の人を助けることだと思っている」。娘さんは山崎さんの耳が聞こえなくなるまで、よく父親から「贖罪」という言葉を聞いていた。

1980年ごろからは山東大学や山東師範大学の学生に無料で日本語を教え、日本政府が支給した年金を寄付するなどしてきた。四川大地震の発生後2日目には、地域の出張所が被災地のために行なった寄付活動の前に地元の赤十字社に3000元を寄付し、新聞のニュースを指差しながら、「義捐金を寄付しなければならない」と娘さんに言っていたという。

高齢の山崎さんは、自分の寿命がもう長くないことを知っている。5年前の97歳の時には、山東省赤十字社の関係者を家に来てもらい、献体の希望者登記表にサインして判を押した。登記表のコピーを手にして山崎さんはこう言う。「死んでも日本には帰らない。ずっと中国に残る」

「チャイナネット」 2009年6月24日

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