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ある華人家庭の震災時の生活 |
発信時間: 2011-03-30 | チャイナネット |
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王永傑さん夫妻の自宅 彼は黒竜江省チチハルの出身で、日本人の中国での残留孤児の子孫にあたる。日本の敗戦後「難民」として逃亡中に、子どもを仕方なく中国に置いて来ざるを得ず、その地の中国人家庭に託したその子どもたちが中国に遺棄された孤児グループとなったが、彼の祖母橋上女史もまさにその一人だったのだ。彼女は黒竜江で成長して成人となり結婚して子をなし、最終的にはチチハル市碾子山区に定住した。1990年代に日本政府は続々と孤児を連れ帰って日本国内に定住させた。1995年、満18歳の王永傑さんもチチハルから東京にやって来て、99年には妻の李萍さんを迎え、二年後には女の子が生まれる。 王永傑さんの妻李萍さんは家の近くの食品工場に勤めている。食品工場は震災後二日目には生産を再開した。この会社の岩手の工場は震災で破壊され生産停止となった。地震の影響で食品の注文が激増し、工場は生産能力超過レベルの生産を行なっている。 彼女や同僚は9時出勤、午後5時半退社に勤務時間が変わった。15日にはデマがあちこちで広がり、更に大きな地震が来るとか、富士山が噴火する可能性があるとか、政府はウソをついている、テレビは信用できないとか、原子力発電所が爆発するとかいう類のものである。まわりの中国人も急いで帰国の航空券を買い始めた。最終的に李萍さんは黒竜江の父親に頼んで航空券を確保でき、25日に帰国する。その後工場に三週間の休暇をもらった。 日本人は逃げ出す事はなかったが、不安におののく気持ちは明らかに増大しており、李萍さんの同僚は以前は自転車で通勤していたが、放射能物質による汚染の話が出て以降、電車通勤に切り替えた。職場の同僚は「君達中国人は逃げる事ができていい、我々は行くところもない」と言った。 人手不足と注文の増大に伴って李萍さんの勤務時間は更に延長され、朝八時から夜十時迄となったが、李はこれを受入れた。日本人は一人も逃げ出していない、これは工場が人を必要としているからであり、我々は協力しなければならないと李は言う。 地震がもたらした混乱と不安は悪い事ばかりではない。李萍さんの弟は日本で学校に行っており、もともと今年7月に帰国して結婚する予定だったが、地震のために早めに帰国したので、婚礼も4月10日に繰り上げる事になった。 「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月30日 |