ホーム>中日両国 |
japanese.china.org.cn | 18. 09. 2014 |
柳条湖事件の爆破地点の方向を指差す瀋陽「九一八」歴史博物館館長助理の崔俊国さん(9月3日撮影)
「九一八事変」(満州事変)の勃発から83年が経過した。当時、硝煙が立ち込めた戦場の遺跡は現在どうなっているのか。記者はこのほど、満州事変が勃発した際のカギとなる3カ所を訪れた。柳条湖の鉄道爆破地点、北大営砲撃の砲弾坑、東北軍の駐屯した北大営である。日本軍が14年にわたる中国侵略戦争を発動した最初の戦火の跡をたどった。
柳条湖事件の爆破地点を訪ねる
当時の歴史はこのように記載されている。1931年9月18日午後10時20分、日本関東軍は、瀋陽の北にある柳条湖付近の南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを中国軍によるものだとして「柳条湖事件」を起こした。これを口実として中国軍の兵営である「北大営」を砲撃し、瀋陽に攻め込み、世界を驚かせた「九一八事変」を開始した。
爆破地点はどこにあるのか。瀋陽「九一八」歴史博物館の館長助理の崔俊国さんは記者を博物館北500mにある長大鉄路(長春・大連)付近に導いた。「ここです。大連からは404.444kmにあたります」と、崔さんは、時折猛スピードでやってくる列車を指しながら語った。
崔さんによると、この地点は、学者の長年の考証を経て、当時の写真とも照らし合わせ、さらに当時この事件を経験した胡広文老人が記憶を頼りに書いた地図によって確認されたものだ。
これについては日本の植民機構である満鉄の資料にも記載されている。爆破地点は、長大鉄路(元南満州鉄道)の大連から404.444km西側の単線路の接続地点にある。
当時の爆破跡はもはや残っておらず、説明の書かれたプレートもない。昔日の長大鉄路のわきには、最高時速350kmの高速鉄道が建てられ、列車が時折音を立てて走って行く。
北大営砲撃の第一砲はどこに放たれたか
日本軍による北大営砲撃の最初の砲弾の着弾点は80年余りが経過した今も見つけることはできるのか。中国近現代史料学会副会長で遼寧「九一八」戦争研究会会長を務める王建学さんに連れられ、爆破地点から直線距離で1kmもない望花南街を訪れた。
平らな道路のわきには整然と住居棟が並び、3階ほどの高さの古いニレの大木2本だけが当時をしのばせる。72歳の住民は、「10年前にはここにはまだ大きな穴があったが、日本人によるものだと聞いている。もともとは塔もあったが、今はない。基礎部分はしっかり作られていて、まだ残っている」と語り、「穴はここにあったが、道ができて埋められた」と足元のアスファルトの道を指した。
「日本軍の最初の砲弾は北大営には命中しなかった」と王さんは指摘する。だが日本軍は瀋陽占領後、北大営砲撃の最初の砲弾の着弾地に記念塔を立てた。抗日戦争の勝利後、塔は倒されたが、その基礎は残っている。
北大営の建物を訪ねる
北大営は、張学良の東北軍の精鋭がいた場所である。史料の記載によると事変の勃発時、北大営には7000人前後が駐留していた。だが不抵抗政策が取られたため、700人から800人の日本軍に数時間で敗れてしまった。
83年が経った今、北大営はまだ残っているのか。崔俊国さんと王建学さんの2人は記者を連れ、砲弾着弾点から車で東に向かった。途中、「北大営東街」と「北大営西街」を通った。「本当の北大営はここにはなかった」と崔さんは説明する。毎年9月18日になると、学者や日本人が北大営の跡を訪ねてくるが、北大営東街や北大営西街に当時の北大営があったと誤解する人が多いという。
本当の北大営は柳林街にあった。王さんは記者を連れ、灰色の古い建物の前に立った。「白いセメントで塗られ、レンガとトタン屋根のこの建物が当時の北大営です」。
現存する北大営の兵舎は2棟半しかなく、長さ約100m、幅7.5mである。2012年、瀋陽市文物局はこれらの残った兵舎を「移動不可文化物」に指定した。
兵舎付近で50年暮らした陳興華さんによると、北大営の兵舎はもともと29棟あった。「広範囲にわたって広がっており、現在残っているのは厩舎と騎兵の宿舎だけだ」。
陳興華さんは、記者の取材ノートに北大営の地図を書いてくれた。これによると、北大営は解放後もほぼそのまま残り、相当な面積にわたって広がっていたことがわかる。「兵舎は少しずつ取り壊しが進んでおり、保護しなければ手遅れになってしまう」
王建学さんによると、北大営は2つの「第一砲」を目撃した。日本の14年にわたる中国侵略戦争の第一砲と、中国人民の抵抗の第一砲である。「北大営は重大な歴史的意義を持った建物だ。さらなる保護措置を取り、この歴史を覚えておくための材料としなければならない」
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2014年9月18日
|
||