九一八事変(日本名·満州事変)は偶然か必然か、かねてから温められてきた計画か、中国に対する探りか?瀋陽「九一八」歴史博物館副館長·研究員の劉長江氏らは、関東軍の九一八事変の発動は、念入りな計画と訓練を踏まえた上で、徐々に推進されたものだと指摘した。
劉氏は、「九一八事変は、関東軍が念入りに計画した、中国東北部の武力侵攻の産物であり、日本の対外侵略·拡張の『大陸政策』の重要なステップ、必然的な結果だった」と語った。
日本は1894年の中日甲午戦争(日本名·日清戦争)で台頭し、遅れた資本主義国から帝国主義の列強の仲間入りを果たした。日本はその後、野心満々として中国·アジア侵略の道を歩んだ。甲午戦争後間もなく、日ロは中国東北部で争奪戦を展開した。日本が最終的に勝利を収め、南満州鉄道など一連の特権を獲得し、侵略勢力を中国東北部に駐留させた。
日本政府は1927年に東方会議を開いた。時の田中義一首相は天皇に文書を上奏した。これが悪名高い「田中上奏文」だ。
「田中上奏文」は全21項目に渡る。そのうち最も代表的な内容は、「支那を征服するためにはまず満蒙を征服し、世界を征服するためにはまず支那を征服する」だ。劉氏は、「これは日本の中国·世界侵略の野心と意図を十分に示している」と指摘した。
日本はその後、東北部の侵略の準備を加速した。関東軍は1928年に 「皇姑屯事件」(日本名·張作霖爆殺事件)を起こし、「東北王」と呼ばれていた張作霖を爆殺した。日本はこれにより東北部で混乱を起こし、隙に乗じて兵を出し、東北部を占領しようとした。これは歴史上、九一八事変の前奏と称されている。
劉氏は、「皇姑屯事件から間もなく、張学良が直ちに瀋陽に戻り、東北の大権を握り、国民政府に従うとは、日本人には思いもつかなかった。日本の中国分裂の野望は、一時停止を強いられた」と語った。
日本は1931年に入ると、東北部の侵略の全面的な計画を始めた。日本の与野党は「満蒙の危機」を誇張し、侵略戦争の雰囲気を作った。さらに中村大尉殺害事件と万宝山事件で、開戦に向けムードを盛り上げ、口実を作った。関東軍は瀋陽での演習を頻繁化させ、北大営と瀋陽への侵攻を目標にした。
遼寧省公文書館の研究者の統計によると、九一八事変の勃発前の1年だけで、関東軍は東北部で軍事演習を100回以上実施したが、張学良と蒋介石から十分に重視されなかった。ついに戦争が始まると、数万人規模の東北軍は戦わずして敗走した。瀋陽が一夜にして陥落し、国恥となった。
劉氏は、「不義をはたらけば必ず自滅する。板垣征四郎、石原莞爾らは、九一八事変の計画者·実行者だ。板垣は極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、1948年12月23日に絞首刑を受けた。石原は法廷の制裁を逃れたが、1949年8月15日に自宅で病死した」と話した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2014年9月18日