1931年生まれの鄭福来さんは、80年前に起きた盧溝橋事件(七七事変)を経験している。高齢者となった鄭さんは、盧溝橋抗戦史のボランティア解説員を66年も続けている。
「あの日、王永禄の息子が玄関前で立っていた。街にはちょうど、砲弾が落ちた。砲弾の破片が彼の腹に刺さり、鉄路医院に搬送されたが助からなかった。生きていれば今は90歳のはずだ」
盧溝橋事件のすべての一幕が、鄭さんの脳裏に焼き付いている。6歳だった鄭さんは同日夜、けたたましい銃声で目を覚ました。鄭さんは翌日、黄色いかばんを背負って私塾に通うつもりだったが、父から止められた。「29軍が日本人と戦闘を開始したから、通学できなくなった」
それから連日、砲撃が家を揺らした。鄭さんは母と保定に避難した。20数日後に盧溝橋の家に戻ってくると、3部屋ある自宅に砲弾が当たり、屋根と窓がなくなっていた。祖母と父はどこかに逃げてしまった。30メートル離れた岱王廟は、日本侵略軍の軍営になっていた。
日本侵略軍が罪なき人々を虐殺するのをその目で見た鄭さんは「日本軍が1人の中国人を殺すのは、1匹のアリを捻り潰すほど簡単だった。この歴史の悲劇を、中国で再演ささせてはならない」と話した。
こうして永定河にかかる全長266.5メートルの盧溝橋は、鄭さんの幼少期の「遊び場」、少年時代の「屈辱の地」、そして現在までの「心の家」になった。
18歳になった鄭さんは1949年、中華人民共和国の成立式典に出席した。20歳になった鄭さんは1951年、中華人民共和国成立後としては初の盧溝橋鎮鎮長になり、米国人記者の取材に応じた。目撃者として盧溝橋事件の経過、現地人の抗戦の歴史を語った。
鄭さんはその頃から、盧溝橋地区のボランティア解説員になった。盧溝橋の歴史と文化、その抗戦の歴史を国内外の観光客に解説した。外国人接待を担当した鄭さんは退職後、ボランティア解説が本業になった。