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japanese.china.org.cn |12. 03. 2019

東日本大震災から8年、被災地の復興が難航中

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(国际·图文互动)(1)大地震8年后,日本东北灾区仍复兴艰难

 宮城県石巻市の住民が3月11日、犠牲者を追悼した。

 

 8年前の3月11日、日本の東北地方でM9.0の地震が発生し、これに伴い特大の津波が発生した。約1万6000人が死亡し、行方不明者は2533人にのぼる。8年が過ぎ、多くの被災地でインフラが再建されたが、依然として数千人が仮設住宅暮らしを強いられている。原発事故の影響を受けた福島県民は依然として故郷から遠く離れている。被災地の復興の道は遠い。

 

 宮城県沿岸部の被災地で、津波によって破壊された光景を見ることはもはやない。沿岸部の土地は平らになり、施工中の防波堤と道路を見ることができる。新たに敷設された道路は、自動車のナビに登録されていない。

 

 宮城県の有名な漁港・女川町は風が穏やかで波が静かに打ち付け、養殖業が営まれている。海岸沿いの鉄道にも電車が走っている。役所、駅、繁華街などが一新され、被災後の公営住宅も全面的に竣工した。

 

 しかし真新しい道路や施設が、災害がもたらした痛ましい記憶を拭い去ることはない。東日本大震災において、女川町の約8000人の住民のうち900人以上が死亡するか行方不明となっており、住民の死亡率が最も高い地域の一つになっている。

 

 11日午後には現地の体育館内で、「東日本大震災女川町追悼式」が開かれた。時計の針が午後2時46分(地震が発生した時間)を指すと、現場の数百人が揃って起立し、犠牲者に黙祷を捧げた。宮城県の村井嘉浩知事は挨拶の中で、「8年前の今日、津波が女川町に壊滅的な被害をもたらした。多くの人が家族を失い、現在も心を痛めている」と述べた。

 

 大震災から8年が経つが、東北3県では5万人以上が依然として避難中で、うち約3000人が仮設住宅で暮らしている。

 

 雨がぱらつく宮城県石巻市の仮設住宅内には、静けさが広がっていた。大半の人がここから出ていったため、人が生活している痕跡はほとんど認められない。

 

 管理事務所の職員である岸野さんは記者に、次のように話した。ここは石巻市で最大の仮設住宅で、別の場所に避難していた住民が徐々に集まってきた。ところが現在の住民は17世帯のみで、高齢者ばかりだ。今年3月末までに、この仮設住宅も閉鎖される。最後に残された少数の被災者は、公営住宅を申請するしかない。

 

 宮城県や岩手県など被害が深刻な被災地と比べると、福島県の死亡者数は最も多いわけではないが、東日本大震災から極めて深く長期的な影響を受けている。福島原発事故により、多くの人が二度と故郷に戻れなくなっているからだ。日本政府がこのほど実施した調査によると、食品購入の際に福島県産であるかを「気にする」は未だ約13%にのぼる。

 

 福島第一原発から約10キロ離れた富岡町は避難指示を解除されたが、1万人以上いた町民のうち800人余りしか戻ってきていない。しかもその多くが高齢者だ。彼らは故郷に戻ると、日常生活で移動、買い物、医療などさまざまな問題に直面する。かつての社会関係も崩壊に向かっている。

 

 花を栽培し販売し、乳牛の飼育を再開する。多くの福島県民が努力し、新たに生活を始めようとしている。路上の荒廃した畑にはソーラーパネルがずらりと並んでいた。これは農作物を栽培しなくなった畑を借りて企業が設置した太陽光発電施設だ。

 

 避難指示が解除された地域は復興を目指し、多くの住民を故郷に戻そうとしている。育児や教育でも優遇策を打ち出している。ところが放射能汚染への懸念から、多くの県民が故郷に戻る決意を下せていない。福島を離れた圧倒的多数の人にとって、故郷は依然として遠い。

 

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