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japanese.china.org.cn |15. 08. 2024

「終戦の日」迎え歴史に真摯に向き合う

タグ: 歴史
人民中国  |  2024-08-15

年も暑い夏、8月になりました。新聞、テレビをはじめあらゆるメディアに「終戦企画」の記事や番組が並びます。8月15日には「全国戦没者追悼式」がテレビ中継されます。そんな8月が巡って来るといつも気持ちが沈みます。私たちが先の戦争、とりわけ「日中戦争」あるいは「太平洋戦争」の歴史とどう向き合うのかという命題が年を追って重く、深刻になっていると感じるからです。今稿では「私」という主語を明確にして語らなければなりません。 

「戦争の悲惨」とは  

読者の皆さんの中には、春から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』をご覧になっている方もいらっしゃるだろうと思います。6月の半ばころから時代は終戦後に入りました。街には傷痍しょうい軍人の姿があり、戦災で親を失った孤児、薄汚れた「浮浪児」たちの悲惨な様子が映し出されました。「子どもは戦争の一番の被害者だ」と語る言葉が流れる画面を見ながら考えさせられました。ドラマの世界とはいえ、私は、どうしても抜きがたい「違和感」に襲われ、立ち止まってしまうのでした。私たちは、何をもって被害者と言うのか、戦争を悲惨とするのかという問いが胸の奥底に深くおりのように沈んで心を重くするのでした。 

かつて放送メディアで仕事をしていた私は、8月になると胸をよぎる仕事の「思い出」があります。職に就いて翌年のことです。当時山口県で勤務していた私は、先輩ディレクターと、いわゆる「終戦企画」の番組取材で岩国市に向かいました。今は米海兵隊航空基地のある岩国市は、「終戦の日」の前日、昭和20年8月14日、米軍機による空襲によって500人以上が亡くなったとされていて、14日に慰霊祭が行われ、夜には慰霊の盆踊りも行われていました。この一連の慰霊の様子を取材して番組にまとめるという企画でした。岩国へ向かう列車の中でのことです。 

「戦争の悲惨って、何をもって悲惨と言うのでしょうか?」「一体どういうこと?」「8月に入ると新聞では、食べるものにもこと欠き戦争中いかに生活が苦しかったか。『すいとん』ばかりで、痩せこけた。もう戦争の悲惨を繰り返してはいけないといったような思い出話ばかりが載りますね。これを本当に戦争の悲惨というのでしょうか」「君は一体何が言いたいの」 

仕事に就いてまだ日も浅い私でしたが、人物として信頼するディレクターだと感じていたので、思い余ってと言うべきか、日頃からの考えを正直にぶつけてみたのでした。 

「メディアに出てくる戦争を回顧する話は全て自分たちの暮らしがいかに厳しかったか、辛かったかという『思い出話』ばかりですよね。それが悲惨なのでしょうか。日本軍によって殺された人々の悲惨はどうなるのでしょう。もちろん米軍の空襲によって亡くなった市民は気の毒な被害者かもしれませんが、加害の側の日本および日本人の責任を置き去りにした『終戦番組』ばかりを作っていていいのでしょうか。日本人の悲惨を言う前に、日本の侵略によって命を奪われ、住む土地もなにもかも奪われた中国の人々の悲惨をまず語らなければならないんじゃないでしょうか……」 

列車の中で向かい合わせに座った2人の間にしばらく沈黙が続きました。 

「君のようなことを言う人間には初めて出会ったな。しかし、じゃあこれから行く岩国での取材をどうするかだな、問題は。どうしたらいいと思う、君は……」。職場では経験も浅くまだまだ未熟な私のもの言いを誠実に受けとめてくれたことで、日本のメディアにおいて加害について語ることがいかに難しいかは分かっているが、しかし、ここを打ち破らなければわれわれの責任は果たせないのではないかとも述べて、これから行く岩国での取材について議論を続けたのでした。ささやかな思い出ですが、仕事を通して「戦争」と向き合った最初の体験として記憶に刻まれています。 

心に刻まれた加害責任  

そこで、なぜ、私がこんな問題意識を強くするようになったかです。 

戦後生まれの私ですが、比較的早く、子どもの頃に「中国との出会い」がありました。父の本棚にあったエドガースノーの『中国の赤い星』を手にしたのは中学生の頃でした。そして、学校で教えられる歴史とは異なる「ものの見方」との間で葛藤を覚えながら世の中について考える習慣が身に付いてしまいました。その最たるものは、この前の戦争は物量を誇る米国に敗れたという世の中の「常識」に対して、父が、「日本は中国の人々の抵抗に敗れたのであって、中国に対して侵略という間違った戦争をしたからなのだ。世の中では終戦というが、これは物事をあいまいにしてしまう言葉だ。中国人民の抵抗に敗れたのだということをはっきりさせることが大事で、敗戦と言うべきなのだ。間違った戦争をすれば必ず敗けるのだ」と語っていたことでした。 

大学生になって、かつて中国で戦犯に問われ日本に帰国して「鬼から人間に生まれ変わった」と自身の罪を赤裸々に語り、若い世代に向けて「中国への侵略の銃を取ってはならない」と全身、全霊をふり絞るように語り続けた元日本軍下級兵士の塚越正男さんに出会いました。東京下町で、一人で、鉄材の加工を営む自宅をお訪ねして、塚越さんが切実な悔恨とともに語る、まさに「血の叫び」というべき真情の吐露を聴きながら、私たちが向き合うべき戦争の悲惨とは何であるのか、そこでの私たちの責任はどうあるべきかについて深く考えさせられました。 

同時に、その頃、日中国交正常化前の60年代半ばでしたが、中国事情に通じている人から、戦後20年を経てなお、中国の街を歩くと10人に何人かは、かつて日本軍によって肉親の命を奪われたか、自身が体のどこかを損ない、その後遺症、障害に苦しんでいる人々と出会うと聴かされました。 

こうした実体験に基づく話から、私には書物から得る知識よりも一層生々しく「日中戦争」の実像が見えてくるのでした。私の「中国との出会い」から心に刻まれた日本の加害責任は実に重く、ここを素通りしては中国と向き合うことができない、つまり中国と付き合う原点となる認識となったのでした。 

私たちの責任をどう果たすか  

そこで、こうした問題に対する私自身の立ち位置を明確にしておく必要があると思います。端的に言えば、戦後生まれの一人として、過去の戦争の時代にはまだ生まれていなかったのですから、私自身に「罪はない」、しかし「責任はある」というのが私の原則です。戦争から時を経て世代も変わり、戦争の記憶が薄れたとしても、過去を変えることはできず、過去はずっと生き続けるからです。それゆえ、過去に責任を持ち続ける覚悟を持たなくては、未来の信頼を生むことはできないと考えます。 

さらに大事なことは、冒頭、「日中戦争」と書きましたが、日本が戦争を仕掛け、中国の人々は自ら戦争しようとしたわけではないことを明確に認識しておく必要があります。日中間には宣戦布告もなければ(言うまでもありませんが宣戦布告していればいいという問題ではありません)、日本が中国から戦争を仕掛けられたわけでもありません。当時日本が「満州事変」「上海事変」などと「事変」という言葉で歴史を偽り続けた含意を知る必要があります。そして傀儡かいらい政権である「満州国」というものをでっち上げ、「五族協和」「王道楽土」などといううつろな「理念」を掲げ、中国の東北支配に乗り出し、そのあげく、中国全土に広がるおぞましいばかりの殺戮さつりく、略奪の泥沼の道に突き進むことになった歴史の実相を、事実に即して、きちんと学び直す必要があります。その後、中国の人々への戦争責任についてはまったくと言っていいほど省みられることなく戦後の日本の歩みが始まるという、現在にまで連綿と続く実に根深い問題を私たちは抱えることになるのです。 

8月に「終戦の日」を迎えることで、いくばくかでも戦争の歴史を振り返るきっかけが与えられるならば、最低限、これくらいの歴史との向き合い方が必要になる、それが、今を生きる私たちの責任だと考えます。 

戦争と向き合う困難に対峙たいじ  

平和は尊い、戦争反対という声は多くの人から聞くことができます。しかし、それが本当に力を持つためには、私たちの過去の侵略および植民地政策を含む加害責任としての戦争責任と真摯しんしに向き合うことができるかどうかにかかっています。 

しかし、歴史は一様ではない、さまざまな側面がある、さまざまな解釈が成り立つなどという、いわゆる「歴史相対主義」という「まやかし」が堂々とメディアや論壇で語られる時勢です。過去と向き合うことから逃れる発想、風潮が世の流れとなってしまうようでは、中国はもちろんアジアの人々との真の信頼関係など生まれようもないということを、いま一度しっかりと確認しておかなければならないと思います。 

私は職を離れてしばらくの間、大学の教壇に立ち「メディア論」を講じていた時期があります。その際、毎年の講義の中に「戦争とメディア」というテーマを設けて若い学生たちと考える時間を持ってきました。論点は多岐にわたりますが一つ大事なことを挙げれば、「なぜ日中戦争において国民は熱狂したのか」という問題でした。もちろん戦争を始めた責任は軍部や政治家にあるのですが、では国民には責任はなかったのかという問題設定です。当時の「世論」、新聞やラジオの報道を振り返りながら、ごく普通の国民が中国侵略に熱狂していく時代の流れを冷厳に見据え、知っておく必要性について考えました。 

そのときの国民的スローガンの代表的なものが、新聞の大見出しにも登場した「暴支膺懲ようちょう」(横暴な中国をらしめる)でした。さらに「百人斬り『超記録』/向井106_105野田/両少尉さらに延長戦」というおぞましい見出しの踊る2人の軍人の「得意然」とした写真を配した新聞記事などを教材としたこともあります。 

果たして、この「熱狂」は過去の話でしょうか。私にはそうは思えないのです。現在の中国を巡る日本のメディアや言論状況を考えるなら、新たな「暴支膺懲」の時代だという強い危惧きぐを拭えません。その後、私が尊敬する中国ウオッチャーの第一人者、矢吹晋氏が、やはり新「暴支膺懲」の時代への警鐘を鳴らしていることを知り、私の受けとめは間違ってはいなかったと確信を抱いたのでした。言うまでもありませんが、これは現在の日本の社会が極めて危険なところに差し掛かっているということであり、矢吹氏と「見立て」を共にできたからといって喜ぶことのできないことです。 

一橋大学教授を務めた故中村政則氏は「貫戦史」という視角を提起して、「戦争は国際関係を大きく変え、国内の政治経済、社会構造に激変をもたらし、人々の思考や心理に大きな影響を与える。戦争が終わったからといってその影響は消えるわけではない」と示唆深い問題提起をしました。 

8月15日「終戦の日」で日本は変わったわけではないのです。敗戦の在り方も含め、その後の日本の歩んだ道は、戦争をきちんと総括することなく、米国との関係の中で、すなわち日米安保=日米同盟基軸の中でひたすら米国と共にあることで「戦争のできる国」へと歩みを進めています。この深刻な事態と真剣に向き合うのが8月でなければならないと考えます。 

明治以降の戦争を振り返れば、日本における戦後はすべからく戦前であったという歴史において、今回の第2次大戦以降は、日本にとって初めて戦火を交えることのない戦後として現在に至っています。戦後が常に戦前であった歴史に終止符を打つことができるか、私たちが鋭く、かつ、厳しく問われているのです。 

この稿が、79回目の「終戦の日」を迎える8月、あらためて過去の歴史と真摯に向き合い、現在の日本社会のありように対して立ち向かう問題提起になればと考えます。それが、これからの日中関係における相互の信頼と絆を強くしていくことにつながるはずだと確信します。 

木村知義 (きむら ともよし)  

1948年生。1970年日本放送協会(NHK)入局。アナウンサーとして主にニュース・報道番組を担当し、中国・アジアをテーマにした番組の企画、取材、放送に取り組む。2008年NHK退職後、北東アジア動態研究会主宰。

  

「人民中国インターネット版」2024年8月15日