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japanese.china.org.cn |14. 09. 2024

友好の種が森になれるように

タグ: 友好
人民中国  |  2024-09-14

段非平=文 

1984年の9月から10月にかけて、3000人余りの日本青年が招かれて中国を訪問し、上海、南京、杭州、西安、武漢、北京で中国青年と友好交歓会を行った。中日国交正常化以来初の大規模な青年交流として、この活動は格別の意義を持ち、数多くの忘れられない思い出も残した。 

大視されたハイレベルの交流 

83年11月26日、胡耀邦総書記(当時)は訪日期間中に講演を行い、中国が3000人の日本青年を中国に招待することを正式に発表した。中日双方は共にこれを重要視し、日本側は日中青年友好交流組織委員会を設立し、中華全国青年連合会、中華全国学生連合会、中国日本友好協会が中国側事務を担当することになった。 

中日双方の共同の努力の下、日本各界から集まった青年や友好人士3000人余りが84年9月24日から10月8日までに訪中した。訪中団団員のほとんどは35歳以下の青年だったが、最年長は「日中友好の井戸を掘った人」と呼ばれる岡崎嘉平太さん(当時87歳)だった。最年少は「四季の歌」を歌った日本の国民的歌手芹洋子さんの娘(当時3歳)で、母親に抱かれて中国にやってきた。 

訪中団の結団壮行会で、中曽根康弘首相(当時)は団員たちに、日本の若者は倍の力で中国青年の手を握り、倍の声量で中国青年と高らかに歌ってほしいと激励した。訪中団の北京到着後、再び日本から祝辞を送っていることから、中曽根首相がこのイベントをどれだけ重視していたのかがうかがえる。日本青年たちも中国から規格外の招待を受けた。中華人民共和国成立35周年の祝賀大会に貴賓として参加したほか、10月3日には中国政府の所在地である中南海も見学し、中国の外国来賓招待の歴史に美談を残した。 

心の距離を縮める対面交流 

訪問期間中、日本青年たちは多彩な活動に参加し、中国青年と友好的な対面交流を行った。 

「飛行機から降りると、花や上海の青年たちの笑顔が飛び込んできました。空港で集団ダンスを踊っていて、とてもにぎやかでした」と当時の光景を振り返るといまだに興奮冷めやらぬ酒井誠さん。訪中団第1陣の日本青年701人は84年9月24日に上海虹橋空港に到着した。当時日中友好協会東京都秘書長だった酒井さんもその一人だ。3日間の上海滞在中、参加したイベントは「数えきれないほどだった」という。酒井さんにとって最も印象深かったのは大型交歓会だった。「交歓会に参加する中日青年があまりにも多いため、複数のグループに分けて会場に入るしかありませんでした。上海の青年たちとは初対面だし、相手の言葉を話せる人が少なく、通訳者も限られていたため、複雑な会話はできませんでした。しかし、それが理由で若者同士の交流を妨げることはなかったです。一緒に笑ったり歌ったり踊ったりして、とても楽しかったです」。上海での訪問活動後、日本青年は南京、西安、杭州、武漢にも行った。「私たちはどこに行っても中国青年の温かいもてなしを受け、家に帰ったような温もりを感じることができました」 

日本青年の訪中の様子がメディアによって日本に伝えられ、日本で大きな話題となった。日本に対する中国の友好的な姿勢は日本国民を感動させ、感謝の意を表明する必要があると日本国民のほとんどがそう思った。そこで翌年秋、504人の中国青年からなる「中国青年訪日友好の船」代表団が招待に応じて日本を訪問した。 

中国共産主義青年団中央国際連絡部部長を務めた倪健さんは訪日団団員の一人だ。倪さんによると、訪日団は47都道府県のうち43を訪問し、会見活動には200以上の日本の青年団体や友好団体、日本政府の関係部門と各政党の責任者および各都道府県の知事、議長、市長が参加した。その後の中日交流活動の中で倪さんは3000人訪中団参加者によく出会い、当時のことを話すだけでみんなすぐ打ち解けたという。 

中日友好のバトンが次の世代に 

「日本青年3000人訪中」活動は両国青年の相互理解と友情を増進しただけでなく、中日友好事業に積極的に従事する青年も数多く育成した。「訪中期間中、日本青年は中国青年の情熱を感じ、日本青年に対する期待、つまり平和共存、世代友好も実感しました。ですから多くの人が帰国後、すぐ日中友好事業に身を投じ始めました」と酒井さんは振り返った。 

「日本青年3000人訪中」のフォローアップ活動3)として、訪中団に参加した200人余りの団員代表とその子どもが2007年6月、中国の招きで再び訪中した。中日交流の第一線で活躍し、両国の友好事業推進に積極的な役割を果たしている人は依然として多い。そのときの訪中団団員の一人、今岡大介さんは何度も中国に来たことがあり、子どもながらに中国通だ。母親の今岡純代さんは日本の民謡家で、1984年の訪中団の参加者だ。「中国公演のたびに大介を連れていきます。息子には私と同じように日中交流の架け橋になってほしいですから。日中友好のバトン4)を若い世代に渡さなければいけません」 

「日本青年3000人訪中」活動からすでに40年がたった。この40年間、中日関係は緊密で良好な時期があれば、冷え込んだ時期もあった。しかし、両国の青年がまいた友好の種はずっと旺盛な生命力を保っている。青年は中日世代友好の事業を継承する希望であり、両国の青年が手を携えれば中日両国の未来はきっとより美しくなるだろう。 

「人民中国インターネット版」2024年9月14日