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japanese.china.org.cn |14. 09. 2024 |
40年続く7日間の友情
中国外文局アジア太平洋広報センター副総編集長 日本企業(中国)研究院執行院長 陳言=文
1984年の「日本青年3000人訪中」で同行通訳として日本青年たちと天安門の観客席で国慶節35周年祝賀式典を見たり、武漢や上海などで交流したりした。行程の中で茨城や栃木から来た20人余りの日本の若者と昼夜問わず過ごし(7)、訪中活動後もその付き合いが終わることはなく、この友情は40年間続いている。
1週間の訪中活動で、日中は団員たちの通訳をし、夜は中国側引率者たちと共に日本の若者たちのところに遊びに行き、会話が深夜まで続くこともあった。当時は一体どこからそんな元気が湧いていたのか、寝るのが遅くても眠気を持ち越すことなく、丸一日の翻訳業務を難なくこなせた。
日本の若者が語る日本の日常生活、社会現象、中国の感想は教科書や書籍以外で初めて「聞く」内容だった。彼らの口から出てくる日本の高齢化や激しい受験戦争、医療制度、政府や行政の特徴などは中国と大きく異なった。公務員の中国側引率者が中国の工業化の夢や国際社会に溶け込むための努力を語ったとき、日本の若者もまた興味津々に聞いていた。
話は給料や恋愛にまで及んだ。日本の若者の給料が私の数十倍だったのは度肝を抜かされたが、結婚観や恋人の選び方はピタリと一致した(8)。そのとき、知識や言語や職歴などはコミュニケーションの邪魔にならず、積極的に交流しさえすればみんなが興味のある話題や対応の仕方にさほど差はないのだと誰もが突然理解した。
毎日十数時間話し、一人で複数人を相手に中国語と日本語をちゃんぽんしていたら喉が潰れかけたが、それでも話し続け、しゃべるのをやめず、またたく間に1週間が過ぎた。
同年10月末、日本から大量のカラー写真が送られてきたので、飛ぶように里帰りし、高校の同級生や家族に見せた。写真は色付きで、人工着色などされておらず、現像時からカラーであり、二、三十枚もあった。友人も家族もうらやましがり、日本とその科学技術に興味を持ち始め、戦後に急成長を遂げた日本を改めて認識した。
86年に初めて日本へ出張に行ったとき、東京でかつて同行通訳したチームの大半のメンバーと再会し、一緒に二重橋に行き、皇居外苑を散歩した。89年に日本に留学してから妻や娘と共に何度も茨城へ行き、そのたびに訪中団の面々と会った。2003年に帰国しても、多くの団員と文通を続けた。いま高齢化について改めて考え、私を含め当時の人間全員がもう65歳を越えていると気付いた瞬間、話題がこれまで以上に共通性を帯び、中日の社会が直面する課題もこれほど一様になったのかとにわかに悟った。
1週間の交流が数十年の付き合いになり、いつ茨城や栃木に行って旧友と会っても、みんなすぐに1984年に戻れる。このような活動が中日間で増えれば、両国関係は意見の相違を乗り越え、平和と友好の理想の世界へ進めるだろう。
「人民中国インターネット版」2024年9月14日