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japanese.china.org.cn |06. 06. 2025

北京郊外の中日友好観光果樹園を訪れて=小林正弘氏

タグ: 青森 りんご 技術 果樹園 中日友好
中国網日本語版  |  2025-06-06

文・写真=小林正弘

清華大学法学博士 

Genuineways Law Firm パートナー

柔らかな小雨の降る5月の下旬、1年半ぶりに北京の北西、昌平区南邵鎮にある中日友好観光果樹園(総面積約21.1ヘクタール、栽培区域約15.5ヘクタール)を訪れる機会に恵まれた。「中日友好」を冠する同果樹園は、1993年に北京市昌平区政府と青森県板柳町が締結したリンゴ技術友好交流協定に基づいて設立されたリンゴ栽培技術の実験モデル基地である。

筆者が2023年11月に初めて同果樹園を訪問した際には、果樹園のリンゴの木は樹齢30年を過ぎリンゴの品質が低下し、果樹園も荒廃した状況であった。今回の訪問では以前の老化したリンゴの木はほぼ見られず、一面にリンゴの若き苗木が植えられており、管理も行き届いている様子であった。施設の改修作業も進められており、その中でも最も深く印象に残ったのは、以前この果樹園に長期滞在し、技術指導に尽力された石澤信重先生の墓石周辺も歩道が整備されるなど綺麗に整備されていただけでなく、かつて石澤先生が植えたリンゴの老木が墓石から望める一角に第一世代の木として残されていたことである。「石澤先生の思いを忘れずに継承していこう」との果樹園関係者の心温まる細やかなご配慮に深い感動と感謝の念を覚えた。

墓石には次の内容が金文字で刻まれている。「石澤重信(1929.8.26-2001.3.23)、日本国青森県板柳町リンゴ指導官は板柳町政府の委託を受け1993年から2000年まで36回、昌平に赴任し、中日友好観光果樹園リンゴ栽培技術を担当し、文化など各種交流を展開し中日友好に突出した貢献を行い、1994年9月に中国外国専門家局より友誼賞を授与され、1999年9月に北京市人民政府より長城友誼賞を授与された」。墓前で手を合わせると、石澤先生が魂魄と留めた中日友好観光果樹園の地に静かに佇む墓石は周囲の若き苗木の生長を楽しみに見守っているように感じられた。

当時、リンゴの栽培技術は日本のリンゴ生産量の半分を占める板柳町では門外不出とされており、北京市昌平区政府と青森県板柳町村によるリンゴ技術友好交流協定の締結に際して多くの反対の声が上がった。これに対し、石澤先生は「日本のリンゴの木は明治時代にアメリカの宣教師が持ってきたもので、当初は板柳町に3本の苗木しかなかった。中国はリンゴの発祥地の一つであり、日本が中国の人々に技術を教えることは“恩返し”と言うべきだ。日本、中国、アメリカもみな同じ星の上にあり、同じ太陽の光と土地が育んだ智恵の成果は、みなで分かち合うべきだ」(国際人材交流2002/8より抜粋)と訴え、理解を広げたという。

石澤先生の指導のもとに栽培された初代のリンゴの木

当時、日本のリンゴ栽培技術を気候、土壌、水源などの異なる土地に導入することは容易なことではなかった。石澤先生をはじめとする日本からの技術指導員は、技術指導と同時に、十年以上にわたり現地の中国人専門家と試行錯誤し共同で研究を行い、中国人専門家も青森県板柳町村に研修に行くなど日中相互に交流をしながら互いに智恵を出し合い改良を重ねた末、中国に適し日中双方の技術上の長所を兼ね備えたリンゴ栽培技術が考案された。そして、この技術に基づき中日友好観光果樹園にて多くの中国人技術専門家が養成され、中国各地へと普及していった。2000年初頭には、数年間で累計10万人以上が研修し、技術は14の省・市に普及し、適用面積は300万ムー(約20万ヘクタール)以上に広がったという。

敷地内には石澤先生の後を受けて技術指導に赴いた塩崎雄之輔弘前大学教授や生越大地JICA専門家が作業する様子や中国、アメリカの専門家による視察の様子を伝える当時の写真も掲げられており、中日友好観光果樹園が当時、日中交流のみならず、中国内外からも注目を集める国際的な技術交流プラットフォームであったことを物語っていた。

中日友好観光果樹園と青森県板柳町との交流は現在、再開への試みが進めれている。中日友好観光果樹園関係者の話では、リンゴの苗木が一定の大きさまで成長しリンゴの実をつけるまでには3年ほどの時間が必要とのこと。リンゴの健やかな成長と祈ると共に日中の農業分野における交流もより盛んとなり、この地で石澤先生の精神を受け継ぐ新たな果実を日中両国の人々が共に享受する日が近い将来に実現することを切に期待したい。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2025年6月6日