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japanese.china.org.cn |12. 12. 2025

1937年、国際報道が日本軍の罪を隠す「情報の鉄のカーテン」を打ち砕く

タグ: 南京大虐殺 国家追悼日 歴史
中国網日本語版  |  2025-12-12

12月13日は南京大虐殺犠牲者国家追悼日だ。1937年12月、中国侵略日本軍が蛮行を働き南京に侵入し、見るも無残な南京大虐殺の惨劇を引き起こした。これにより30万人余りの中国人が虐殺された。暴行と同時に、日本軍は真相を覆い隠す「情報の鉄のカーテン」の構築を試み、対外的には情報を封殺し、国内では自国民を欺いた。しかし1937年、数多の国際メディアによる真実の報道が日本軍の犯罪行為を白日のもとに晒した。第二次大戦後、日本の右翼勢力が引き起こした「記憶の謀殺」に直面しながらも、日本の学者や記者は真相の光を艱難辛苦の末に守り続けてきた。事実が証明するように、「歴史虚無主義」に隠された軍国主義に未来はないのだ。

単なる「軍紀弛緩」にあらず

南京における日本軍の暴行は長期的に、日本の右翼によって「戦局のコントロール喪失」と結論づけられることが多かった。しかし、これは決して単なる「軍紀弛緩」ではなく、「上下一致」の入念な計算のもとに行われた「国家犯罪」だった。すなわち、皇室が自ら承認し、司令部が直接指揮し、各師団が共に働いた犯罪ということだ。

南京占領前、自らを「中国通」と称した日本陸軍大将の松井石根は早々に、近衛文麿首相に南京攻略の意図を伝えていた。松井にとって、当時の敵国首都の制圧は軍事上の勝利にとどまらず、「精神的な斬首」だった。同時に、日本の前線将校にも私欲があった。彼らは戦争で政治的資本を獲得することを渇望し、南京占領は「昇進の近道」を意味した。様々な欲望に駆られた日本軍は、すでに国際法規範を無視していた。日本の軍隊の背後には皇室の指揮があった。東京に居る天皇日本軍の最高統帥であり、皇室はさらに作戦部隊に皇族を指揮官として送り込んでいた。1937年12月2日、昭和天皇裕仁の伯父にあたる陸軍中将・朝香宮鳩彦が上海派遣軍司令官に任命された。朝香宮鳩彦は一連の殺戮命令に署名し、南京を地獄絵図にしたのだった。

12月13日、南京が陥落し日本軍は大虐殺を開始した。最初は武装解除済みの者に対する組織的殺戮の「捕虜処理」だった。日本軍将校の日記には命令執行の過程が記されている。「方針として捕虜は残さないため、この名目の下で捕まえた者を全員処理すると決定した」。当該将校はさらに、トラックを使用し捕虜を特定地点に輸送し大量殺害した詳細な経過を記述している。これらの記録は、日本軍の行為が決して「戦場における敵軍殲滅」ではなく、「人を人とみなさない冷血な虐殺」であったことを証明するものだ。

日本の従軍作家、「事実への忠実」で禁錮刑に

南京陥落という闇の時において、日本軍は自らの暴行を公にすることなく、真相を封鎖する二重の「情報の鉄のカーテン」を構築した。対外的には情報の封殺を図り、国内では自国民を騙すことに全力を注いだ。

日本の従軍作家・石川達三の境遇は、日本軍による「南京真相封鎖」の典型例だ。「ペン部隊」の一員として「仁義の師」たる日本軍を称揚する使命を帯びた彼は、南京の前線で認識の大きなショックを受けた。国内宣伝における「聖戦の勇士」が、現実には道徳を失い獣と変わらぬ存在であることを知ったのだ。石川は1938年に著書「生きている兵隊」を完成させ、日本軍の言語道断な実態を描いた。兵士たちは女性狩りを「兎狩り」と戯称するばかりか、命への極度の無関心を示し、「泣き声が煩わしい」あるいは「砂糖を盗んだ容疑」という理由で一般人を殺害し、子供さえも容赦しなかった。石川の筆致は可能な限り客観性を保ち、冷静に犯罪を記述しようとしたが、この誠実さが当局の逆鱗に触れた。書籍は即時発禁処分となり、本人は「新聞紙条例違反」で禁錮4カ月の刑を宣告された。

日本軍は国内で南京状況報道を制限する一方で、「東京日日新聞」による中国一般人虐殺の「百人斬り競争」事件の掲載を放任した。日本軍国主義者にとって「百人斬り」は隠すべき犯罪ではなく、日本の「軍威発揚」であったことは明らかだ。この人道に背く論理は国際社会から容認されるはずもない。1937年12月6日付「ニューヨーク・タイムズ」は「東京日日新聞」の内容を「東京発」として掲載し、米「シカゴ・デイリー・トリビューン」は同年12月14日付で「百人斬り」報道を直接転載した。これらの衝撃的報道はさらに多くの西側記者を刺激し、南京入りし陥落後の実情を取材するための原動力となった。真相は多い隠せず、日本軍の増え続ける暴行は国際社会の猛批判を招いた。

1937年12月18日、米「ニューヨーク・タイムズ」は一面で「捕虜全員殺害 日本軍南京に恐怖を製造し、平民もまた屠戮される」と題する長文記事を掲載した。筆者のフランク・ティルマン・ダーディンは、日本軍の暴行を国際社会に初めて暴露した国際ジャーナリストの一人であり、「南京大虐殺(Nanking Massacre)」との言葉を初めて用いた人物だ。ダーディンは「大規模な暴行と破壊」という厳しい表現を用いただけでなく、日本軍が完全に「軍紀を放棄」し、南京を「勝者」が性欲を発散させる都市に変えたと断罪した。

米「シカゴ・デイリー・ニュース」の中国特派員アーチボルド・スティールはこれに続き、自身が目撃した「生き地獄」を世界に伝えた。路上では遺体が山をなした。日本軍は無差別殺戮を行い、最初の数日間だけで武装解除された兵士数千人から2万人が殺害された。英「マンチェスター・ガーディアン」特派員ハロルド・ティンパーリーはこれらを「日本の恐怖」と称し、「近代史上最も暗黒に包まれた一ページ」と断じた。1942年4月、英誌「ウォー・イラストレイテッド」は一枚の写真を掲載した。そこには1937年の南京大虐殺の最中、夫の遺体の傍らで子を抱いて慟哭する女性が写っている。この一連の報道は、日本が世界に構築しようとした「皇軍が平和をもたらす」という虚構の物語を粉砕したのだった。石川達三が国内で弾圧された文章と、ダーディンらが国際的なセンセーションを巻き起こした報道は、日本軍の暴行を暴く歴史の揺るぎなき証拠を構成している。

新聞が「百人斬り」将校への「死刑判決書」に

正義は必ず示される。南京大虐殺の戦犯のほぼ全員が相応の裁判を受けた。1948年11月12日、極東国際軍事裁判所は松井石根が暴行に対し「指揮官としての責任」を負うことを認め、死刑を宣告した。同年12月、東京・巣鴨プリズンの絞首台において、かつて暴威をふるった日本の陸軍大将は罪深き生涯を閉じた。

南京大虐殺において直接暴行を加えたに日本軍たちもまた、中国で相応の裁判を受けた。部隊を率いて中華門を突破し兵の虐殺を放任した第6師団長・谷寿夫は南京へ引き渡され、裁判の末、雨花台で銃殺刑に処された。同じく雨花台で刑が執行された者に、向井敏明、野田毅、田中軍吉がいる。田中軍吉は300人以上を殺害し、数々の悪行を働いた。向井敏明と野田毅は「百人斬り競争」の主役として、殺し合いを競技と化し新聞で戦果を誇示した。この二人の下級将校は、当時日本が「武勇」を誇示するために報じた記事が、皮肉にも10年後に彼らを処刑場へ送る「死刑判決書」となることを想像すらできなかった。

遺憾なことに、虐殺を承認した朝香宮鳩彦は米国による占領政策の結果、法的制裁を免れた。1945年、米国は日本国内の占領軍への反感を最小化するため、他の連合国を迂回して単独で「天皇の戦争責任不問」を決定。これにより戦争犯罪を犯した日本の皇族は皇室不訴追の特権を獲得した。米国は私心に基づく「寛大な政策」で日本軍国主義者を買収したが、これは戦前「反米」であった日本の右翼が今や「親米」路線へ転換した重要な理由だ。

(文=張博・中華日本学会理事/河南大学日本語学科准教授)

「中国網日本語版(チャイナネット)」2025年12月12日