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| japanese.china.org.cn |28. 04. 2026 | ![]() |
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東京裁判開廷80周年を振り返る 南京大虐殺は揺るぎない事実――米国検事補サットンの立証活動
今年5月3日は極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷80周年に当たる。1946年、11カ国の司法関係者が結集したこの歴史的裁判が正式に始まった。2年半にわたり第二次世界大戦中の日本のA級戦犯を裁き、日本軍国主義の数々の犯罪をを全面的に明らかにした。全818回の開廷、証人419人の出廷、証拠4336件、4万8千ページ以上の法廷記録が残され、審理を通じて日本軍国主義の極悪非道の犯罪行為が暴かれた。この裁判において、被告25人はすべて有罪判決を受け、東条英機ら7人の戦犯には絞首刑が言い渡された。「人民日報」が伝えた。
カナダ在住の華人である段宇豪氏は2025年末、米メリーランド州の小規模なオークション会社で一連の文書資料を落札した。それは東京裁判で米検事補を務めたデヴィッド・サットンの個人文書で、総重量は約7.5キロ。この史料は2026年初春、中国へ戻された。
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サットン日記の記述(撮影・鄒徳懐)
上海交通大学戦争審判・世界平和研究院の趙玉蕙副研究員によると、1946年初頭、東京裁判の起訴準備作業は重要な段階を迎えていた。巣鴨プリンゼンには当時100人以上のA級戦犯容疑者が収容され、アジア各地で犯した戦争犯罪について取り調べを待っていた。国際検察局はすでに、日本による中国侵略の犯罪行為こそが検察側の立証作業の出発点であり、すべての起訴の核心であると認識していた。人手不足が深刻だったため、国際検察局はサットンを米国から東京へ追加派遣し、中国検察団とともに日本軍の中国における戦争犯罪の調査・証拠収集に当たらせた。特に南京大虐殺関連の証拠収集が重点とされた。
1946年3月12日、サットンは東京から上海へ飛んだ。中国での調査期間は30日以内に厳しく制限されていた。時間が限られていたが、サットンの方針は明確だった。法廷で証拠の効力を確保するため、証人は極めて高い信頼性を備えていなければならない。すなわち、政府公務員、大学教員、宣教師、医師などで、さらに可能であれば英語で証言できる人物が望ましいとされた。サットンの日記にはこの証拠収集の旅が詳しく記されている。長江沿岸で6千人が日本軍の機関銃掃射で殺害された惨殺事件の現場を訪れ、慈善団体の埋葬記録を調査し、南京大虐殺の生存者の証言を収集した。サットンは金陵大学の教師ベイツ氏、英国人記者ティンパーリー氏、聖公会の神父ジョン・マギー氏、鼓楼病院の医師ロバート・ウィルソン氏を探し当てた。これらの人物は後に東京裁判における南京大虐殺の重要証人となった。
サットンは生存者に対して、証拠収集の一連の手続きを定めていた。まず聞き取りを行い、次に証言を書き起こして翻訳し、最後に公証と署名を行った。この手続きによって得られた宣誓供述書は、法廷で揺るぎなき証拠となった。趙氏によると、サットンは遠く米国の法律事務所から送金してもらい、自費で証人の宿泊費などを立て替えることさえあった。
南京では、サットンは在中国米国大使館を訪れ、米国側と東京の日本政府高官との間で交わされた電報を入手した。これらの電報は、日本軍が南京で暴行を働いていた当時、米国側の抗議がすでに東京へ送られており、日本の指導部がその事実を完全に把握していたことを示していた。趙氏は、「検察側は法廷に対し、日本軍の戦争犯罪がアジア太平洋の各戦場で広く発生し、すでに体系的なパターンを形成していたことをさらに証明しようとしていた。検察側は『指揮官責任』および『閣僚責任』を追及しようとした。すなわち、日本の最高意思決定層が、戦場で国際法違反の暴行が繰り返されていることを知りながら、これを阻止するいかなる措置も取らなかったということだ」と説明する。
1946年7月、東京裁判は南京大虐殺に関する検察側の立証段階に入った。弁護側は反対尋問を試みたが成功しなかった。「南京大虐殺の証拠は非常に確実だった」と趙氏は述べる。「弁護側はほとんど異議を申し立てず、効果的な反論もできなかった。サットンは、この裁判の判決は決して覆されることはないと確信していた」法廷は3週間をかけて10人余りの証人の口頭証言を聴取し、100件以上の書面証言および関連文書を受理した。
1948年11月4日、極東国際軍事裁判は判決文の朗読を開始した。判決文は二章を設け、日本軍が南京で犯した極悪非道の犯罪行為を認定した。そして「日本軍占領後最初の6週間のうちに、南京およびその周辺で虐殺された民間人と捕虜の総数は20万人に達した」と認定した。当時、中国検察官秘書を務めた高文彬の記憶では、傍聴に来た日本人たちは法廷を出た後、中国検察関係者を前にし「顔を上げて私たちを見ることさえできなかった」という。
サットンは東京裁判を高く評価した。1950年のある文書ではこう記している。「東京裁判の価値は、それが武力体系に代わる法律と秩序の体系に向けた一歩だったことにある」
「中国網日本語版(チャイナネット)」2026年4月28日
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