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japanese.china.org.cn | 11. 03. 2014 |
筑波大学にいた当時、あるお気に入りのケーキ屋があった。余りに美味しく、数に限りがあるため、遠路遥々買いにやって来るお客も多かった。2年前に筑波に行ってみると、20数年経った今でも店の大きさが変わることもなく、ただ味が以前にも増して美味しくなっていて、究極のケーキと呼ぶに相応しいものだった。
一つのことを極めようと努力する人は若者の間にも多く、「マニア」と呼ばれている。彼らの好きなことに対する精通度は並大抵なものではなく、周囲の人を驚かせる。以前、「専門家」VS「マニア」という対決番組があったが、そこでは「マニア」が勝利を収めていた。一番印象深かったのはある20代の「東京都営バスマニア」で、彼は都内のバスの全路線の停留所名から停留所間の所要時間、バスの型、バスの製造年、車内に設置された停止お知らせボタンの製造日まで把握しており、どのバスが、どこの工場で、いつつくられたボタンを使用しているかをすべて答えられたから驚愕だ。
一つのことを極めた人はどこの国にもいるものが、一つの社会における「マニア」の多寡はその国の文化に異なる影響を与える。社会統計学では、この数が全体の5%未満であれば個別現象であるとされている。個別現象はさまざまな要因で時間とともに消失し、新浸透力のある文化的蓄積とはならない。日本では「マニア」の数への統計はないが、日本で仕事や生活をする私は恐らく10~20%は存在するのではないかと予想している。その数は社会統計学が個別現象とする5%を大きく上回る。一つのことを極めようとする人は強靭な不屈の精神の持ち主である場合が多く、彼らは周囲の人、あるいは大衆に対して超越した言語浸透力と影響力を与え、感動を呼び、人生の価値は金銭でもなく勝敗だけがすべてでもなく、自分が没頭できることを堅持し、困難を乗り越え、極めることに人生の真の価値があるということを気づかせてくれる。この価値観が国境を越え、文化を越える感染力をもつことは、浅田選手が証明してくれている。
戦前、日本の民衆は生活を維持するだけも困難で、一部の大工などを除いては、一つのことを極める余力などなかった。60年代に入って、経済が発展し暮らしに余裕が生まれると、日本人は人生の価値を追求するになる。この時、世論も人々が自分の好きな仕事、物事に熱中できるような環境作りに励んだ。平凡な暮らしの中である物事、技を極めることを楽しみとし、挑戦する中で喜びや幸福感を感じ、同時に社会もこれらの人々を尊重し、称賛するようになった。一方で、手段を選ばず、虚偽を弄して地位を得ようとする人は、一旦それが明るみになると法的責任を負うことになり、社会からも厳しい目が向けられるとこになるのだ。
日本にはスポーツや文芸、専門技能、学術論文などの分野での奨励制度はあるが、小学校から中学校までは優秀な生徒を評定するという制度はなく、会社内にも模範社員などは設けられない。テレビや映画の中で描かれるのも成功者ではなく多くがごく普通の人間だ。身の回りのごくありふれた親しみのある人々が、平凡な暮らしの中で何かを極めようとする人間の方が、より感染力が強く、人々の模範となりやすいのだ。幾世代の文化的蓄積を経て、浅田真央選手や日本の女子バレーだけでなく、一つのことを極めようと絶えず努力する精神は、日本人の文化的素養を形成するソフトパワーとなっている。このソフトパワーに国や文化を越える感染力があるのは、人々が損得勘定やさまざまな誘惑に揉まれて疲れ果て、一つのことを追求することで幸福という精神世界に到達することを渇望しているからである。それと同時に、その願望が実現困難なものであることを知しり、努力や挑戦を続ける不屈の精神の尊さを人々は身に染みて感じようになるのである。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2014年3月11日
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