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北京がロス五輪を救った
発信時間: 2008-07-16 | チャイナネット

米オリンピック委員会のピーター・ユベロス会長にとって、1984年5月12日の夜にかかってきた1本の電話は、生涯忘れられないものだ。はるばる北京からかかってきたこの長距離電話は、ユベロス会長をとてつもなく興奮させる知らせを告げた。中国が84年ロサンゼルス五輪に参加するというのだ。米紙「ニューヨーク・タイムズ」(14日付)によると、当時米国は、ソ連のロス五輪ボイコットを阻止する方法を模索している最中だった。ユベロス会長の言葉を借りると、中国のこの行動はロス五輪だけでなく、その後のオリンピックの運命をも決定したのだ。「環球時報」が伝えた。

▽ソ連などの国々がロス五輪をボイコット

ロス五輪を2カ月後に控えた1984年5月8日、ソ連は安全上の理由から選手団の派遣をとり止めると発表した。1980年のモスクワ五輪では、米国が数十カ国を集めてボイコットしたという経緯がある。米国に報復するため、ソ連もロス五輪のボイコットで他の国々との同盟に動き始めたのだ。ソ連は、すでに100カ国が選手団の派遣とり止めで合意したと発表した。当初このリストには中国も入っていた。

国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長(当時)はいろいろと説得に回ったが、こうした国々の決定を覆すことはできなかった。ユベロス会長はロス五輪への参加を促すため、決定を留保している国々にただちに特使団を派遣した。中国に派遣されたのはロサンゼルス郡検事局の検察官、チャールズ・リー氏だ。リー氏は中国人ではないが、流暢な中国語を話す。ユベロス会長自身はキューバーへ飛んだ。

▽中国語に精通した特使を派遣

現在62歳のリー氏は、ロサンゼルス高裁の判事職をすでに定年退職している。リー氏が中国語を学び始めたのは、海軍に所属していた1960年代末のことだ。その後、台湾で2年間の研修も積んだ。夫人も香港出身の中国人だ。ロス五輪の準備段階で、五輪組織委員会規則の起草にはリー氏の働く法律事務所も加わった。中国語に精通した特使が必要になった時、ユベロス会長がリー氏を思い浮かべたのは、このためだ。

リー氏は70年代と80年代に何度か中国を訪問し、長年外国人に扉を閉ざしてきたこの国に深く引きつけられた。「大多数の地方では、夜に電気もない。空港から市中心部への道路はただの細い道。当時中国に西洋人はいくらもいなかった。中国語を話せる西洋人となると、なおさらだ。当時中国側は私を電球工場などへ案内した。夜になると、手品のショーへも連れて行かれた」。

1984年5月の訪中では、中国側の熱烈な歓待を受けた。数度の会合の後、中国政府の体育部長がリー氏にロス五輪への参加を伝えた。リー氏は中国側に、ユベロス会長宛の書簡を書くよう求めた。「当初彼らは口頭で参加を伝え、文書にまでする必要はないと考えていた。だが私は再度要求した。最終的に彼らは、親切にもあの書簡を渡してくれた。すべての過程は完璧だった」。

だが、誰よりも喜んだのはユベロス会長だ。ユベロス会長は「あれはわたしの人生にとって、1つの転換点だった」と語る。ユベロス会長のキューバ訪問は成功しなかったが、リー氏の中国訪問は思いがけない成功を収めた。ユベロス会長は「中国の決定によって、ロス五輪はバランスを取り戻した」と強調する。

最終的に、ロス五輪をボイコットしたのは14カ国だけだった。ロス五輪は経済的にも政治的にも成功を収めた。ユベロス会長は開会式で中国選手団が受けた熱烈な歓迎を今も覚えている。中華人民共和国の選手団が会場に姿を現すと、9万人もの観衆が立ち上がって歓呼の声を上げた。それはオリンピックの新たなスタートを告げる光景だった。ある中国人選手が米国の子どもたちに会いたいと言った時、リー氏は自分の娘2人を彼らと遊ばせた。その時の写真は今も大切にしている。

2年前に米オリンピック委員会と中国オリンピック委員会が協力文書に調印した際、ユベロス会長は中国側の劉鵬会長にロス五輪の聖火トーチを寄贈した。居合わせた人によると、それはとても感動的なシーンだったという。

すでに齢70歳のユベロス会長は今年8月、米選手団を引き連れ、感謝の念を胸に北京五輪に参加する。ユベロス会長はオリンピックを救ったのは北京であり、オリンピックのあり方を変えたのも北京だと考えている。

「人民網日本語版」2008年7月16日


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