主人公は24年の歳月と自らの知恵を全部「国宝」パンダの保護・繁殖科学研究にささげた共産党員――「パンダの父」と呼ばれ、ジャイアントパンダ保護研究センター主任の張和民教授。
1980年代、世界野生動物基金会は何度も専門家を中国に派遣し、ジャイアントパンダの繁殖問題に共に取り組んだ。10年間でわずか一匹のパンダしか生まれず、しかも2年間しか生きなかった。当時は全世界のどこの研究機構も人工飼育によるジャイアントパンダの繁殖に手の打ちようがなかった。
1983年、中国でヤダケが大量に花を咲かせたことにより、パンダは厳しい生存の試練に直面することになった。その年22歳の張和民は四川大学生物学部を卒業した。彼は大都会で就職するチャンスを捨てて、臥竜(四川省のパンダ繁殖基地)への就職を申し込んだ。張さんはその時点から、ジャイアントパンダと切っても切れない縁を結ぶことになった。
当時の臥竜には、10頭のパンダしか生存しておらず、繁殖についての研究は非常に困難だった。
1989年、修士の学位を取得した張さんは奥さんと一緒にアメリカで就職できるチャンスを捨て、国に帰りジャイアントパンダ繁殖の難題に取り組む決心を固めた。
張さんは研究する中で、パンダはなかなか発情しないことに気づいた。「とこ入り」させても喧嘩ばかりし、なかなか「発情しない、妊娠しない、成育しない」という三つの難問があった。
度重なる失敗を経て、張さんはパンダたちを一緒に遊ばせて、「自由恋愛させる」ことが必要だった、と気づいた。そこで、彼は同僚たちと24時間パンダの世話をしつづけ、パンダたちに「語りかけ」た。「動物も人間と同じで、緊張すると、ホルモンの分泌に問題が生じ、病気にかかる。」と彼は語った。
しかし、パンダはしょせん野生動物であり、パンダの飼育は危険性がともなう。1995年のある日、張さんは「英英」という名のパンダに、木に登ることを教えている時、理由なく突然「英英」が怒り出し、張さんの足に噛み付いた。このせいで張さんは3カ月入院するはめになった。
「英英は手加減してくれたんだよ、やはり心配りをしてくれた。でなければ私の足はきっと不自由になっていた。」と彼は笑って当時のことを語る。現在、英英はすでに7対の双子、15頭の子パンダを産んだお母さんパンダの「英雄」に成長している。
1992年から2006年までに、臥竜のパンダは最初の10頭から現在の119頭にまで増え、人工による繁殖は73回の出産109子で、育ちきったものは94頭に達し、世界の飼育ジャイアントパンダ総数の50%以上を占めている。臥竜では世界最大の飼育ジャイアントパンダの種群が形成されている。
2001年以降、国家林業局臥竜自然保護区管理局の局長として張さんは地元の人たちを組織して耕地を竹林地にした。この活動はパンダたちの食料問題を解決し、環境保護にも利益をもたらし、地元の300戸あまりのチベット族、チャン族、漢民族の人々の収入をも増加させた。
張さんの現在の最大の希望は、7年間をかけ2億元を投入して、300匹のパンダを飼育できる「ジャイアントパンダ全国繁殖育成センター」をつくることである。
「チャイナネット」2007/09/12