丸沢常哉博士
丸沢常哉博士(1883-1962年5月)、新潟県高田市の生まれ。中学校を卒業してから、東京帝国大学工学部に入学し、応用化学を専攻した。1911年、ドイツに留学し、分析化学を専攻し、化学の分野での才能を現した。1917年11月に工学博士の学位を獲得した。1925年、丸沢常哉博士ははじめて中国の東北にきて、旅順工科大学の教授となった。この間、丸沢常哉博士はヨーロッパに二回目の留学をし、電気化学と冶金化学を修めた。
1936年、丸沢常哉博士は2回目に中国の東北に来て、「満鉄」の顧問及び中央試験所の所長を務めた。1940年に任期満了となってから、所長を辞して、「満鉄」の顧問として、年に2回中央試験所に顔を見せた。「満鉄」の管轄期間に、特に1931年以降、中央試験所の研究プロジェクトはすべて日本の侵略戦争のためのものであった。対中侵略戦争の拡大につれて、「満鉄」は中央試験所に研究の効率を向上させ、東北の資源を開発し、戦争を支持することを求めた。
これに対して、丸沢常哉博士は戦後、「政治と経済の面での無知で、だまされて、中国を侵略することになりました」、といつも自分の過ちを責めとがめた。還暦の年になってからの10年間に中国に残ることを堅持したのは、中国経済の発展を促し、新中国を建設し、実際の行動で、中国に対する罪の償いをするためであったといわれている。
1945年7月、丸沢常哉博士は三回目に中国の東北に来て、再び中央試験所の所長を務めた。8月15日に、日本が敗戦し、丸沢常哉博士の人生の軌跡は変わった。中国側の求めに応じ、丸沢常哉博士は11年間にわたって中国に残り、前後して中国の東北と四川省長寿県で、自分の該博な知識を生かして、新中国の建設と化学工業のために貢献し、すばらしい成果で、中日友好の歴史に新たな1章を書き加えた。
中国で働いていた期間に、丸沢常哉博士はいつも若い技術員に化学知識を伝授し、中国のため数多くの技術人材を育成した。同時に、丸沢常哉博士は積極的に中国東北の工業の建設と四川省長寿県化学工場の建設と発展に身を投じ、指導的な著作及びレポートを書きあげた。
1955年、丸沢常哉博士は帰国し、日本触媒化学工業株式会社の顧問を務めた。体は日本にいるが、丸沢常哉博士は中国の発展に非常に関心を寄せ、中国の科学技術の飛躍的な発展に感心していた。晩年、丸沢常哉博士は親戚に「中日友好と世界の平和のため、力を尽くす」の遺言を残し、中日両国人民の世々代々の友好往来を願っていた。
「チャイナネット」2007年9月25日