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共産党創立90周年 忘れるべからず感動的な中日間の歴史
発信時間: 2011-06-15 | チャイナネット

 中国共産党90年の発展の成果について高原教授は、中国共産党の90年の過程が容易ならざるところは誰もが認めるところだと指摘。特に1976年以降、社会は安定し、人々の生活水準は日増しに高まった。こうした中国共産党の貢献は誰も否定できない。13億人を抱える大国が安定と秩序を維持し、人々が飢えないこと自体、中国共産党は中国および世界に多大な貢献をしている。改革開放後、中国経済は急成長を続け、今や世界の経済成長をけん引し、世界経済に重要な貢献を果たしている。全文へ>>

日本籍解放軍が振り返る八路軍への航空理論授業

新生中国共産党東北空軍航校は様々な困難に直面していた。中でも最大の難関が、学員達の文化的レベルの低さだった。日本人教員たちは知恵を絞って、様々な奥深い内容を噛み砕きながらのデモンストレーションを通して、それまでは教科書でしか学べなかった航空基礎理論を学員達にマスターさせた。

四則計算に姿を変えた航空理論課程

私が東北空軍航校に飛行教官として赴任した時、空軍航校が牡丹江に移転してすでに3ヶ月が経っていた。当時の空軍航校の状況は、長い間八路軍とともに過ごしてきた教官の私でさえ、驚くような状態だった。一番典型的な例は、林弥一郎(中国名:林保毅)教官の一回目の航空理論の授業を置いて他にないだろう。

その日、林保毅は教室を兼ねた宿舎に入り、椅子や机がないため、リュックの上に座り、自身の膝を机にして座っている多くの学員達をしみじみと眺めた。彼は、この百戦百勝の八路軍戦士達を相手に、軍事課程の中でも最高レベルに位置する航空理論について授業ができることを誇りにさえ感じていた。 全文へ>>

解放軍に8年間在籍した日本人女性

 

山辺悠喜子氏は、ごく一般的な日本人女性である。しかし、彼女と中国、中国の軍隊、そして中国人との間には特別かつ不思議な関係が存在する。人々はみな、彼女は中国解放軍に参加経験を持つ日本兵だという。

12歳で海を渡り中国へ

1941年、当時まだ12歳だった悠喜子は、父親に会うため、母親とともに遼寧省本渓市へ。当時、彼女の父親は本渓市の日系炭鉱会社に勤めていた。幼い悠喜子は中国に来るまで、当時まさに行われていた抗日戦争(日中戦争)のことは全く知らなかったが、中国で生活するにつれ、彼女は身の回りで起こる多くの出来事に興味を持つようになった。

悠喜子はよく、日本人が公衆の面前で中国人を殴ったり罵ったりするのを見かけた。中国の土地で、なぜ日本人がこんなに偉そうにしているのか。中国の労働者達はどうしてこんなに貧しいのか。どうして日本人は気ままに中国人を殴ったり罵ったりするのか。たくさんの疑問を抱えて父親に尋ねても、ただ一言「それは、彼らが中国人だからだよ。」と言われるばかり。そしてこの答えが、さらに悠喜子を混乱させるのであった。全文へ>>



八路軍と共に生きた日本人:従軍看護師の半生

私は福岡県の片田舎で生まれ育ちました。1945年5月、中学を卒業したばかりの私は、3人の同級生と共に遼寧省錦州市にあった満鉄(南満州鉄道株式会社)の看護師学校に第5期生として進学しました。進学後まもなく、8月15日、敗戦の日、日本が無条件降伏したことが校内の放送で流れました。

9月になると八路軍(中国国民革命軍第8路軍、中国人民解放軍の前身)の負傷兵が病院に運び込まれるようになりました。10月末、私たちは下の広場に集められました。八路軍の院長が通訳を通じて私たちに伝えたのは次のような内容でした。「中国国内の戦況はとても緊迫したものになっている。国民党軍はすでにこの街に進軍しており、我々八路軍は撤退を余儀なくされている。我々には医療者が不足しているため君たちの力が必要だ。我々八路軍と共に逃げる意思のあるものは、今夜6時半、病院の正門のところに集合するように」 と。

八路軍は私が生まれて初めて出会った軍隊でした。彼らはとても親しみやすく、私たちが日本人だからといって蔑んだりしませんでした。私は虜囚の身というものがどういうものなのかあまり考えたことがなかったので、八路軍について行くことに特に不安はありませんでした。当時、私はまだ15歳で、何としても生きのびなければならないという思いもありました。 全文へ>>

 

 

日本とゆかりのある中国の革命家たち

聶栄臻元帥、抗日戦争の中から日本人少女を救出

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻将軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて来るように指示した。聶栄臻将軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻将軍はナシを取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻将軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻将軍は、「敵は無数の同胞を残忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦争の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻将軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を与えていた。女の子も聶栄臻将軍を慕うようになり、将軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻将軍は、女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り届けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻将軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。  全文へ>>



日本留学、青年周恩来が革命に身を投じる契機に»

1917年9月、抜群の成績で天津南開中学を卒業したばかりの周恩来は、求学報国という壮大な理想を抱きながら、日本行きの汽船に乗り込んだ。しかし、わずか19歳の周恩来にとって、日本での学問探求の道は決して平坦ではなかった。「光明日報」が伝えた。

時の中国は、軍閥が混戦する暗黒の時代にあり、帝国主義列強とくに日本に陵辱されていたことで、熱血の周恩来は心を静めて学ぶことはできなかった。日本の大学には合格はしなかったものの、日本に1年余りとどまった経験はむしろ周恩来が社会主義思想に接し、革命に身を投じる志を立てる重要な契機となった。

日本の小学館出版の「周恩来―19歳の東京日記」を開いてみると、青年時代の周恩来が東京で暮らしていたときに体験した生活の窮迫、孤独な思い、思想上の苦悶が伝わってくる。周恩来は東京に着くと、神田区中猿樂町七番地にあった「東アジア高等予備学校」に入り、学んだ。20歳にならない青年が肉親と遠く離れ、異国の地で孤独を感じるのは想像できる。家庭が貧しいうえに政府の奨学金もなかったことから、常に生活を心配し、東京の住まいも引っ越してはまた引っ越しだった。そうしたなか、周恩来をより悩み苦しませたのは、当時の中国が混乱の時代にあり、理想にあふれてはいても、国恩に報いるに門はないと感じたことだ。 全文へ>>